2023年12月3日日曜日

映画「アポロニア、アポロニア」

菊川Strangerで「アポロニア、アポロニア」を観た。

前回観た映画は「春原さんのうた」だった。日常のような景色を新鮮な気分で集中して観ることができ、聴こえる音に耳をすますことができた貴重な体験だった。そのためもあってか、このカフェが併設された席数49のこじんまりした映画館に対してどこか親しみのようなものを感じている。期待して映画を観た。

このドキュメンタリー映画でレア・グロブ監督はアポロニアがまだ美術大学の学生だった頃から13年間に渡って彼女を撮り続けた。

アポロニアの人生は波乱万丈だった。彼女の家族が暮す家は劇場であり多くの芸術家たちのたまり場だった。両親は彼女が生まれる前から(!)アポロニアの姿を映像に収めており、その映像は映画の中でも一部使われている。彼女が子供の頃に両親は離婚し、母親とともに劇場を追い出された彼女は生命が危ぶまれるほどの重病を体験している。後に彼女は生家である劇場に戻るのだが、そこは女性権利団体FEMENの拠点となり、アポロニアは代表のオクサナと親しくなる。その影響があったのかなかったのか、後に劇場は放火され、さらに彼女は傷害事件に巻き込まれそうになった。

そんなことがありながら彼女は職業として画家を選んだ。選んだからにはどれほど人生が困難に満ちていたとしても絵を描かなくてはならない。美術大学を卒業するまでは絵のことだけを考えていられたが、プロとして生計を立てるには絵を売るために人脈を作り、絵を描くことのできる環境を作らなくてはならない。芸術は人生とは別にあるものではないのだから。

初めて個展を開いたとき、彼女は「絵に十分な時間をかけられなかった」と言い、評論家は「描かれた人物が死者のように見える」「対象に対する愛が感じられない」と言った。彼女は自分が絵を売るために魂を他人に売り渡したのではないかと思って泣き崩れるが、「○○がない」と分かるということは、それが大切なものだと分かったことの裏返しだ。

彼女は確かに周囲の状況に追われるように絵を描いたが、自分にとって大切なもの、自分の愛の対象を見失ってはいなかった。当初はモデルを使って絵を描いていたが、後年になって描く対象は人生において彼女が関わった女性像へと変わった。その中には後に自殺したオクサナが描かれた絵がある。批判された当時の彼女の絵のタッチと、称賛されるようになってからの彼女の絵のタッチがそれほど大きく変化しているとは思えない。対象を見つめる眼が深化したということなのだろう。

レア・グロブ監督の撮影は通常のドキュメンタリーではない。アポロニアに対するカメラの接近度合いは恋人、家族の視点に近い。ある場面で男のカメラマンが、宣伝写真なのだろうか、彼女を撮っていた。数十メートルはあろうかというアナルプラグの形の立体作品の前でアポロニアは「裸になりたい」と言った。男のカメラマンはやんわりと拒否する。その様子を映画のカメラはとらえている。アポロニアはレアに向けて撮ってくれと言い、レアはそれに従って裸の彼女を映像に収める。信頼の度合いが男のカメラマンとレア・グロブとでは異なっているのである。

監督は客観的な無色透明の立場で彼女にカメラを向けることをしなかった。単にアポロニアを撮るだけでなく、彼女の人生に関わり、自分自身も途中で病に倒れながら何とか復帰して映像を撮り続けた。あれほどの困難を乗り越えてなお映画を完成させるのは愛情でなくて何だろう。この映画は芸術家の成功が描かれ、男性に依存しない自立した女性像を提示しており、それは現代社会に受け入れられそうな題材である。だがこの映画の本当の要は、撮影者が被写体に対して愛情を持っていたことにあると私は思っている。

2023年11月9日木曜日

ムージル「愛の完成」感想

ムージルは「寄宿生テルレスの混乱」で作家としての第一歩を踏み出した。
物語は少年テルレスが親元を離れ、全寮制の学校に入学するところから始まる。彼は同じ学校の生徒である他の少年たちとさまざまな体験をするが、とりわけ重点が置かれているのは少年たちによる一人の生徒への虐待である。バジーニという生徒が周りの少年たちから精神的だけでなく肉体的にも痛めつけられるのだが、それが物語のクライマックスになっている。その光景を目にしたテルレスは目もくらむほどの強烈な性的衝動を感じるのである。
物語はテルレスがバジーニの件で退学することになって両親の元に戻るところで終わり、彼のその後の人生を描くことはない。後に彼が加虐に性的な喜びを感じる人間になったとか、同性愛者として人生を送ったなどと書かれることはない。
ムージルの筆は性の衝動がテルレスにとって未知の衝撃として襲いかかるその一瞬に着目しており、性の衝動を生活の一部として表現したり人生の中に位置づけたりしていない。さらにムージルの次作を見ても、性愛は重要な位置を占めているものの、主人公の生活を描くことに主眼は置かれていないのである。

ムージルが「テルレス」に続けて出版した短篇集「合一」は、「愛の完成」と「静かなヴェローニカの誘惑」の二作品からなる。ここでは「愛の完成」について書くことにしよう。
この作品には主人公クラウディーネが夫から離れ一人で旅をする途中で行きずりの男と不倫を行うまでが書かれている。だがその文体や内容は通常の小説からはかけ離れている。抽象的で難解な、濃い霧の中を歩いているような、焦点の合わない画像を見つめるような、自分がどこにいるのか分からなくなるような文体。彼女にとって夫との関係に何も問題はないのだから、不倫を行わなければならない理由は見当たらない。しかしクラウディーネは一人で思索にふけりながら不倫を行うことは可能だと考える。

私たちは、私たちのような人間は、もしかするとこんな人間たちとも一緒に暮らせるのかもしれない。

そのとき彼女は、私は他の男のものにもなれるのかもしれない、と考えることができた。そしてそれが不実ではなく、何か究極の結婚のように感じられた。 

人がしばしばどこか遠い場所に何かを見つけ、自分とは無縁のものだと思っていたのが、いざその場を離れ、その何かが自分の生活に関わる領域のある地点まで入り込んでくると、自分が以前いた場所は今は不思議なことに空っぽで、自分は昨日これやあれをしたのだと想像する必要があるというのはなぜだろうという気がした。

彼女は不貞を日常に開いた裂け目あるいは深淵のようなものとして想像する。そしてもしもその中に身を投じるなら自分はその状況に順応するだろう、と考えるのである。これは新たな別の生活が始まるということとは少し違っている。抽象的な文章は不貞を生活の中に存在するものとして描こうとしない。生活とは異質なもの、異なる次元にあるものとして不貞がとらえられているのである。

こういった人々の中には、私にはふさわしくない、私とは他人だと思うような男が暮らしている。けれどももし私がその男にふさわしい女になっていたなら、今日そうであるような自分については何も知らなかったかもしれない。

もしも私がこの男たちの一人の生活圏内に閉じ込められたとしたら、そのときなるであろう人間に私は実際になり得るのだろう。そしてその場合の現実の出来事とは、ある意味どうでもよいものでしかなく、脈絡もなく生じた裂け目からときおり一瞬だけ吹き出すようなものであって、その下の誰も足を踏み入れたことがなく、決して現実とはならないものの流れの、孤独で俗世を離れた優しい音は誰も聞くことはないのだろう。

任意の一秒はどれも深淵のようなものであり、人を病人に変えたり、他人に変えたり、色あせたものに変えたりするのだが、単に誰もそれに気付かないだけなのだ。

それはまるで、人が途切れることなく話しているとき、どの言葉も前の言葉が必要としていた言葉であり、また次の言葉を必要としているというふりをするのだが、それは言葉が途切れた沈黙の瞬間に何か想像もつかないふらつきを感じ、また静寂によって言葉が分断されるのが怖いというようなものだ。けれどもそれは、人のすべての行動の相互間には恐ろしい偶然性が口を開けているということに対して、ただ不安になり弱気になっているだけなのだ……

この作品の裏側に隠れているもの、決して明らかにならず底流のように潜んでいるものとしてクラウディーネの不感症的傾向がある。ムージルの筆は抽象的であいまいだからそのような傾向を読み取るのは意味を限定しすぎているという誹りをまぬがれないが、拙訳はそのように訳した。
クラウディーネは性の世界を自分から離れた異質なものとして想像する。異質なものであるからこそ、それは自分には制御できないものであり、外側から自分を誘うものであるように感じるのである。

他の人間にとっては愛の場面で意識もしないような固くしっかりした基礎の部分に、彼女の場合は不確かなもの、何かゆるんだもの、暗く閉ざされた感覚があるのだった。我を忘れた興奮にあこがれる、どこか病んだ自分に対するかすかな不安が彼女にはあり、究極の絶頂感に対する予感があった。そしてそれはときおり、まるで人に知られぬ愛の苦しみが自分に定められているような予感になるのだった。

彼女はその瞬間、彼女の体はそれ自体が感じたものをまるで故郷のようにぼんやりとした障壁として覆っている気がした。彼女の感覚自体は誰よりも近いはずの彼女に対して閉ざされており、不意にそのことが夫と自分を隔てる紛れもない不実であるように感じられた。

クラウディーネの不倫相手は参事官と呼ばれるが、彼が何者なのかははっきりしない。だがそれはこの小説の抽象的な文章にふさわしいともいえる。すべての文章はまるで方位磁針のように不倫という結末を指し示し、主人公は機械のように正確に不倫という行動に向かって動く。だから小説が終わった後の彼女の人生が想像できない。彼女は無名の彼、匿名の存在の彼に惹きつけられてゆく。

そしてそのとき不意に参事官の姿が頭に浮かび、すると彼女は刺激を感じた。男が自分に対して欲望を抱いていることを彼女は知っていた。さらにここで可能性との戯れでしかないことが、彼の元では実現することも。

彼女は参事官が今どこかで自分のことを待っている気がした。すでに周りの狭い視界に彼の息が満ち、近くの空気に彼の匂いがするのだった。彼女は落ち着きがなくなり帰り仕度を始めた。彼に会いに行こうとしている自分に気付き、それがどのような結果をもたらすかを考えると、たちまちその想像は彼女の体を冷たくとらえてしまった。まるで何かに体をつかまれ、扉へと引きずられているような感じだった。

彼女の体が男の体の下に横たわる姿を、小川の流れのようにあらゆる細部まではっきりと思い描いた。青ざめた自分の顔を、身を任せるときの恥ずかしい言葉を、彼女の上に覆いかぶさり、彼女を押さえ付けている男の猛禽類の翼のように逆立つ目を感じた。

彼女は自分自身の行動のすべてを、この上ない鮮明さで見るのだった。これまで彼女から奪われていた姿、快楽に翻弄される姿を、およそ彼女の心が誤って取り除き、放棄していた姿を──。やがてそれは小さく、よそよそしく、他とのつながりを失い、遠く遠く離れていった。

最後の場面でクラウディーネと参事官は会話を交わす。小説の初めの頃はあれほど長かった一つ一つの文章は短くなり、結末に向けて物語の流れが速くなったことを読者に伝える。クラウディーネは参事官を部分的に好きになったことを認める(と解釈してもよいだろう)が、まだ彼女は抵抗しており、全体として好きになったとは認めない。

 それから参事官は彼女の部屋でそばに座っておおよそこう言った。君は僕のことが好きなんだね。僕は確かに芸術家でも哲学者でもないが、立派な(ガンツァー)人間だと思うよ。 

 それで彼女は答えた。「何ですか。全体としての(ガンツァー)人間というのは。」「おかしなことを聞くね。」参事官はむきになったが、彼女は言った。「そんなことはないと思います。あの人の目が好き、あの人の話が好き、言葉ではなくて声の響きが好き、だからあの人のことが好き、というのはおかしいわ。」

ちなみにこの部分を読んでいて、(この二人は何を言い争っているのだろうか)(もしかすると部分的に好きだとか全体的に好きだとか言っているのではないか)と思った瞬間は忘れられない。まるで霧が晴れるような、レンズの焦点が合ったような感覚があった。「この作品全体を訳してみたい」と思った瞬間だった。
最後の最後になって、クラウディーネの参事官に対する呼びかけは敬称 Sie から親称 du に変わる。(古井由吉氏の日本語訳では「参事官さん」「あなた」と訳していたが、拙訳でもそれを踏襲した。)愛している、愛していないという意見の対立は解消される。彼女は深淵へと身を投げ、参事官を愛することで肉体的な満足を得る。まったく別の人間へと変わるその有様は、まるで心を体が裏切る典型的な官能小説のようだ。

 そして彼女はもう一度言った。
 「お願い、離れてください……」彼女は言った。「……嫌だわ……」
 けれども彼は微笑んでいるだけだった。それで彼女は言った。
 「あなた、お願い。離れて。」
 すると彼は満足の溜息をもらした。「やっと君は言ってくれたよ。愛しいかわいい夢想家さん。あなた、と。」 
 するとそのとき、彼女はぞっとするような感覚に体を震わせ、快感があらゆる障壁を乗り越えて彼女の肉体を満たしたことを感じるのだった。

この「愛の完成」という作品を、「一編の交響詩を聴くよう」「素材に依らずともそのものが音楽としてなっている文学」と表現して愛好したのはピアニストであって文筆家の青柳いづみこ氏だった。ムージルの研究者は難解だが密度の濃い小説としてこの作品を重要視している。インターネットを検索すればこの作品に感動した人の感想がたまに見つかる。それぞれの人がそれぞれの感想を持ってかまわないだろう。

だが私が言っておきたいのは、この「愛の完成」という作品は──難解な外見の裏側に──かなり隠微なエロティシズムが表現されているということだ。読者の皆様はどうお考えになるか、聞いてみたい気もする。

2023年10月15日日曜日

「ヘンルーダ」について

松岡千恵さんの著書「ヘンルーダ」に興味があった。
岬書店から出版されている。夏葉社の島田潤一郎さんが発行者になっている。
著者は現役の書店員だとのこと。書店員の仕事にまつわるあれこれや、書店で働く人々の姿が描かれる。エッセイのようでもあり、フィクションのようでもあるそうだ。書店によって置いてあるところもあるが、どの書店にもあるという販売形態ではないらしい。

エッセイとフィクションの混合という点に興味を持った。
「起きたそのままのことを書く」エッセイに対して、フィクションによって方向性を定め読者を思索へと誘うような、そんな話の膨らみを持たせることはできるだろうか。フィクションが嘘の方向でなく真実の方向に向かうことはできるだろうか。
フィクションのあり方について個人的に関心があったから、「ヘンルーダ」を読んでみたくなった。

その日は休日だった。普段買い物をするときに行くような場所だけでなく、それまで行ったことのない新しい場所、珍しい体験をしてみたくなるような日だった。
家の近所を休日に歩く景色は、同じ場所を平日に歩くときと景色が違って見える。けれどもそれは気分が大きく変わるというような大袈裟なものではない。同じ景色を少し違う気分で歩くことは、大きな気分の変化をもたらさない。
そこで今まで一度も行ったことのなかった上野のルートブックスという本屋に行こうという気になった。
カフェが併設された本屋。カフェの中に本棚が並んでいるような作りの本屋。その存在は知っていたが一度も行ったことのない本屋だが、どんな本屋なのだろう。

上野駅から歩いてルートブックスに向かった。表通りから少し入ったところにある本屋だった。昔ならたどり着けなかっただろう。GPS機能付きの携帯電話がなかったころの昔には、ギャラリーや雑貨屋に行こうとしてたどり着けなかったこともあった。ルートブックスは駅からさほど遠いわけではないが、ふとそんなことを思い出す。
店の前の通りには車が止まっていて道が狭くなっていた。店の前に植物が生い茂り、植物に囲まれた印象のある本屋だった。木のドアを開けて入ると入口近くにはテーブルが置かれ、その上には本の入ったケースがいくつもある。
その空間は、本棚が並んでいるだけの普通の書店とは少し違っていた。カフェの中に足を踏み入れたような感じだった。本箱の中には何冊ものZINEが入っていて普通の本屋とは品揃えが違っていた。
「購入前の本をカフェコーナーに持ち込まないでください」張り紙がいたるところに貼ってあった。本コーナーで本を買い、喫茶コーナーでその本を読むことを想定しているのだった。

丸の内キッテに昔あった書店のことを思い出した。隣にはカフェスペースがあった。店内は広いというほどではなかったが、本の選定に独特の個性があった本屋だった。
日本橋高島屋に黒澤文庫という書店があって、本格的なコーヒーの店が一体化している。行ったことはないけれど。

「ヘンルーダ」を読んでみた。
確かに作者の体験を書いたエッセイのように初めは思えた。書店員の作者が本屋で体験したこと、書店のアルバイト店員のいろいろな行動が語られる。
風変わりなアルバイト店員の風変わりな発言、あるいは店員が巻き込まれた思いがけない事件など。けれども読んでいるとこれはフィクションなのではないか、実際にあったことを書いているのではないのではと思えてくる。どこか不思議な奇妙な世界が顔をのぞかせる。
短篇集の一つ一つの作品が短いから、奇妙な世界は真実と虚構のどちらとつかないまま終わる。読者は宙ぶらりんになったまま放り出されてしまう。登場人物たちはこれからどうなるのだろう。そもそも彼らは本当に実在したのだろうか。
普通の本は厚紙の表紙にさらに紙がかぶせてあるけれど、この本にはない。これを「チリなし製本」と言うらしい。覆いをかぶせるようなカバーのない製本は、作者の心の声を直接聞くような思いがする本の内容と合っている気がした。

2023年9月25日月曜日

Consequential Strangers

「Consequential Strangers」という本をロバート キャンベルさんが紹介していた。キャンベルさんの訳した題名は「愛おしい他人たち」。我々の周りにいるさほど重要でない他人、例えば買い物のときに会話を交わしたり散歩のときに公園でいつも見かけたりする人々が、実は我々の幸福感に影響を与えているという本だった。そういった人々は家族や親友などとは違って、小説の登場人物でいえば端役のような存在だけれど、そういった人々にスポットライトを当てている。
なぜ彼らが幸福感に影響を与えるかというと、彼らは我々が日々抱えている問題から遠い存在であることが好都合なのだった。自分の問題から一旦離れさせてくれる存在、自分を客観視して問題解決のヒントを得る上で都合のよい存在なのである。

話は変わるが、随筆集の「あなたの暮らしを教えてください3 居心地のいい場所へ」を読んでいたら、ドナルド キーンさんの文章が載っていた。日本の好きなところとして店の店員の心遣いをあげている。ニューヨークのスーパーマーケット、銀行、郵便局の窓口の人々と比べて態度に優しさがあり、それは好ましいことである、と。そのような文章を読むと、きっと日本の店員は優しい雰囲気で客の心を暖かくしているのだろうな、という気がする。
同じ本に千葉すずさんの文章が載っていた。ロサンゼルスのレンタカー店に行ったところ、店員と客が笑顔で話し込んでいて行列がなかなか進まない。客の一人は筆者の借りようとしたレンタカーが壊れている車だと教えてくれる。やっとのことで正常な車を借りると、その客は笑みを浮かべて「よい旅を」と言うのだった。世の中に間違った人がいても、人生に失敗があっても、最終的に修正できればいいじゃないか、という精神がそこにはあった。

ふと思ったのは、アメリカと日本では「Consequential Strangers」のあり方が違うのではないかということだった。親しくない他人との接し方は国によって違う。「Consequential Strangers」の作者が想定していたのは、アメリカ人によくあるような態度や接し方だったのかもしれない。
日本語訳が出ていないので私は英語の原文を読んだ。読書はなかなか進まないし、はたして内容を理解できているのか不安にかられる。例えばキャンベルさんのようなアメリカ社会も日本社会もよく知っている人に、それぞれの社会における他人とのつき合い方を解説してもらいながら読みたい気がした。

2023年7月16日日曜日

「トニオ・クレーガー」翻訳のおぼえがき

この作品を日本語に訳すにあたって、Bürgerという語をどう訳すかは常に問題になる。リザヴェータはトニオのことをBürgerと形容し、トニオはその言葉にショックを受けるという、作品中での重要な単語である。
ここでのBürgerは芸術家とは対照的な存在、芸術家と対立する存在として用いられており、実吉訳、高橋訳は「俗人」、浅井訳は「一般人」、平野訳は「普通の人」だった。
日本人の研究者の論文を読むと、「市民」という訳語を使う人が多くいる。芸術家に相対する存在として「市民」を選ぶのは少し違和感があるが、社会を構成する人間として用いる文脈では「市民」というのは使いやすい語だと思う。
拙訳では「一般市民」「市民」を使った。Bürgerの直訳に近い単語であり、芸術家の対義語としては少し違和感を感じるかもしれないが、これはこれで許してほしい。

もう一つこの作品で問題になる単語として、das Lebenがある。トニオがdas Lebenへの愛を告白する場面はこの作品の要なのだから本当に重要な単語であるわけだが、訳語を選ぶのは本当に難しい。
実吉訳は「人生」「生活」だった。高橋訳、浅井訳、平野訳は「人生」。「私は人生を愛している」という告白になるわけだ。
「人生」という単語には、人生という時間を過ごした一人の人間というニュアンスも含まれるかもしれないが、一人の人間の過ごした時間のようなニュアンスもまた含まれている。この作品でのdas Lebenは、時間というよりは「生き生きとした人間」もしくは「人間の生き生きとした性質」のような意味で使われている気がする。もしそうならば「人生」という語は少し使いづらい。
研究者たちの中には生という訳語を使い、括弧付きで「生」と書く人がいる。時間というよりは人間の性質に重きをおいて訳した場合の語だと思う。
拙訳では山括弧付きで〈生〉もしくは山括弧なしで生という訳語を使った。「〈生〉というものは生き続ける」「〈生〉は性懲りもなく罪を重ねる」「〈生〉の側の人間が芸術に挑戦しようとするくらい哀れな光景はない」のような訳し方であり、「時間」とはニュアンスが異なる訳し方である。

〈生〉あるいは「市民」という訳語を選ぶに当たって、他の誰よりも辻邦生の存在が大きかった。彼は「トニオ・クレーガー」の翻訳を残しているわけではないが、自他ともに認めるマンへの愛で世に知られた人だった。彼には「トーマス・マン」というマンの作品についての評論をまとめた著作がある。その中で「生」と「市民」の側に属する人間に対して、「精神」と「芸術」の側に属する人間が対比されている。彼は「生」と「市民」という語を使っていた。
「生」や「市民」という訳語を使う人は他にもいるが、僕がこの訳語を選ぶ際に最初に頭に浮かんだのは辻邦生だったことを書いておきたい。

この作品では、後半のデンマークのオールスゴーでトニオが会ったのはハンスとインゲボルクだったのか、それとも彼らとは異なる別人だったのかということが問題になる。
二人が現れたと書いてある箇所の原文はイタリック体になっている。イタリック体は強調の場合だけでなく「言葉を文字通り受け取ってはいけない」ときにも用いられるとのこと。マンは後でもこの二人がハンスやインゲボルクとは別人であることを匂わせる文章を書いているが、別人であることを強調するのではなく、あくまであいまいな書き方をしている。
いずれにしても強調しておきたいことは、僕にとってこの作品の素晴らしさは、「トニオがハンスとインゲボルクに似た人に会った」点にあるのではない(似た人に会ったからそれが何だというのだろう)。ほとんど不可能な、奇跡のような出来事が筆の力によって可能となる、「インゲボルクに再会することは可能だ」ということの驚きにある。クライマックスではインゲボルク、マグダレーナ、トニオの三人の持つ意味、三人の本質が明らかになるのだが、それはその瞬間に真実が姿を現したとも言え、実際に会ったこととほとんど変わりない。

だからこの作品を訳すときには、作者にとっての真実が表現された作品だと考えて訳した。読者の皆様はどのようにお感じになるだろうか。

2023年7月9日日曜日

トーマス・マン「トニオ・クレーガー」

「トニオ・クレーガー」クリエイティブ・コモンズ・ライセンス


トーマス・マンの「トニオ・クレーガー」を翻訳しました。

かつて夢中になって読み、それからしばらくの間心が離れてしまった小説ですが、今回読んでみてやはり好きな作品だということがわかりました。訳してみたら思っていたよりも主人公に傲慢な印象を受けませんでした。もしも興味がおありでしたらぜひお読みください。

「田中一郎訳」を表示してくだされば二次利用は自由です。非営利での利用をお願いします。リンク先はテキストデータですがルビや傍点の処理に青空文庫の書式を使っています。


本文中ではZigeunerにジプシーという訳語を当てています。差別的な意味で用いられる単語であり、作品において登場人物も差別的な意味でこの語を用いていますが、本作品が書かれた時代背景を考慮して本文を変えることなく訳語を当てました。訳者に差別を助長する意図はありません。ご理解下さい。

2023年1月19日木曜日

ルパン三世1stシリーズの音楽から

テレビアニメのルパン三世1stシリーズ(旧ルパン)はとにかく音楽が良かった。物語の単なる伴奏にとどまらず、劇中に流れる音楽をそれだけ取り出して聴いても心躍るような素晴らしさがあった。

テレビ放送の音源を集めた「ルパン三世'71MEトラックス」というCDを聴いた。放送時に製作された音楽が効果音と一緒に収録されている。新規に演奏したものではなく、番組を観たときに聴いていたそのままだからうれしい。ブリッジのような数秒の長さの曲も丁寧に収録してくれていて有り難い。
高島幹雄さんが解説を担当している。それによると、音楽を担当した山下毅雄さんはルパン役の山田康雄さんとは彼がテアトル・エコーに在籍していたころからの知り合いだったという。山下氏にとって、山田氏のイメージはロックであり、だからルパン三世の音楽は山田氏のイメージで作られたものだった。
アクションシーンで流れる音楽はごく短いフレーズの積み重ねで作られていて、全体として調和のとれた世界を構築するという音楽ではなく、それは例えば警察の予想もしない方法で宝石を盗むような敵の裏をかくルパンの世界に一致するものだった。
旧ルパンの音楽を聴いていると、あらためて僕の中でその音楽が占める割合は大きかったのだな、と思う。
AFRO "LUPIN'68" TV ORIGINAL

話はルパン三世やアニメ音楽一般に限らず、その後クラシック音楽を聴くようになってからも、フレーズとフレーズをつなぐ経過句のような、曲の中でそこだけ独立した世界を作るような曲想が好きになることがあった。
旧ルパンの音楽とは音楽としては似てもつかないけれど、独立した世界という意味では例えばモーツァルトの「ジュノーム」のメヌエットや、あるいは経過句という意味ではピアノ協奏曲第23番の第3楽章の中間部などは僕の中で印象に残っている。
全体の構成はまったく似ていなくても、細部の現れ方だけを取り出せば意外なものに共通点が見えてくるかもしれない。
ピアノ協奏曲第9番第3楽章(25:38~)
ピアノ協奏曲第23番第3楽章(21:17~)

音楽に限らない話をするなら、小説の中で急に文体が変わり、文章の調子がそれまでと変わることがある。
ドイツ語の小説ではムージルの「愛の完成」やカフカの「判決」などはそのような作品として印象に残っている。それまでは一つの文章が長かったのに、クライマックスになると文が短くなり、たたみかけるような調子になっていた。
「愛の完成」では参事官の誘惑に屈するまいと抵抗していた主人公が突然堰を切ったように行動へと駆り立てられていた。「判決」では弱気な態度に見えた父親が豹変し、すると主人公は家を出て川にかかる橋まで走り欄干を飛び越えていた。
そうした小説のドイツ語を日本語に翻訳してみたことがあるが、原文が短いとき思い切り訳文を短くしていた。そんなときは心の中で、作者が急に調子を変えたとしてもついていこう、作者が急加速したとしても遅れることなくついていこう、という気になっている。どうやら僕は訳文を考えながら、自分の文章を加速させて文章の調子が変わることを楽しんでいるようだ。

そういえば子どもの頃にシャーロック・ホームズをよく読んでいた。名探偵が登場する短篇だからまわりくどくなく、物語は一気に真相に到達する。物語の末尾にホームズが事件を要約する一言を述べたり、古人のことわざを引用して鮮やかに締めくくられることも多い。ホームズ以外にも探偵小説や推理小説、ミステリと呼ばれるジャンルへの偏愛はずっと続いている。一気に真相にたどり着く物語、何か急に流れが変わるという点に惹かれているのかもしれない。

だから(あくまで仮の話だが)自分で小説を書くとしたら、推理小説であったとしても殺人事件が起きる必要はなく、名探偵が出てくる必要もないだろう。「日常の謎」であってもよいだろう。けれども物語には中心となる一点があって、主人公はその一点についてあれこれ思索をめぐらすことは必要かもしれない。そして文体によって何かを語っている小説。はたしてそんな小説を書くことは可能だろうか。