2023年7月16日日曜日

「トニオ・クレーガー」翻訳のおぼえがき

この作品を日本語に訳すにあたって、Bürgerという語をどう訳すかは常に問題になる。リザヴェータはトニオのことをBürgerと形容し、トニオはその言葉にショックを受けるという、作品中での重要な単語である。
ここでのBürgerは芸術家とは対照的な存在、芸術家と対立する存在として用いられており、実吉訳、高橋訳は「俗人」、浅井訳は「一般人」、平野訳は「普通の人」だった。
日本人の研究者の論文を読むと、「市民」という訳語を使う人が多くいる。芸術家に相対する存在として「市民」を選ぶのは少し違和感があるが、社会を構成する人間として用いる文脈では「市民」というのは使いやすい語だと思う。
拙訳では「一般市民」「市民」を使った。Bürgerの直訳に近い単語であり、芸術家の対義語としては少し違和感を感じるかもしれないが、これはこれで許してほしい。

もう一つこの作品で問題になる単語として、das Lebenがある。トニオがdas Lebenへの愛を告白する場面はこの作品の要なのだから本当に重要な単語であるわけだが、訳語を選ぶのは本当に難しい。
実吉訳は「人生」「生活」だった。高橋訳、浅井訳、平野訳は「人生」。「私は人生を愛している」という告白になるわけだ。
「人生」という単語には、人生という時間を過ごした一人の人間というニュアンスも含まれるかもしれないが、一人の人間の過ごした時間のようなニュアンスもまた含まれている。この作品でのdas Lebenは、時間というよりは「生き生きとした人間」もしくは「人間の生き生きとした性質」のような意味で使われている気がする。もしそうならば「人生」という語は少し使いづらい。
研究者たちの中には生という訳語を使い、括弧付きで「生」と書く人がいる。時間というよりは人間の性質に重きをおいて訳した場合の語だと思う。
拙訳では山括弧付きで〈生〉もしくは山括弧なしで生という訳語を使った。「〈生〉というものは生き続ける」「〈生〉は性懲りもなく罪を重ねる」「〈生〉の側の人間が芸術に挑戦しようとするくらい哀れな光景はない」のような訳し方であり、「時間」とはニュアンスが異なる訳し方である。

〈生〉あるいは「市民」という訳語を選ぶに当たって、他の誰よりも辻邦生の存在が大きかった。彼は「トニオ・クレーガー」の翻訳を残しているわけではないが、自他ともに認めるマンへの愛で世に知られた人だった。彼には「トーマス・マン」というマンの作品についての評論をまとめた著作がある。その中で「生」と「市民」の側に属する人間に対して、「精神」と「芸術」の側に属する人間が対比されている。彼は「生」と「市民」という語を使っていた。
「生」や「市民」という訳語を使う人は他にもいるが、僕がこの訳語を選ぶ際に最初に頭に浮かんだのは辻邦生だったことを書いておきたい。

この作品では、後半のデンマークのオールスゴーでトニオが会ったのはハンスとインゲボルクだったのか、それとも彼らとは異なる別人だったのかということが問題になる。
二人が現れたと書いてある箇所の原文はイタリック体になっている。イタリック体は強調の場合だけでなく「言葉を文字通り受け取ってはいけない」ときにも用いられるとのこと。マンは後でもこの二人がハンスやインゲボルクとは別人であることを匂わせる文章を書いているが、別人であることを強調するのではなく、あくまであいまいな書き方をしている。
いずれにしても強調しておきたいことは、僕にとってこの作品の素晴らしさは、「トニオがハンスとインゲボルクに似た人に会った」点にあるのではない(似た人に会ったからそれが何だというのだろう)。ほとんど不可能な、奇跡のような出来事が筆の力によって可能となる、「インゲボルクに再会することは可能だ」ということの驚きにある。クライマックスではインゲボルク、マグダレーナ、トニオの三人の持つ意味、三人の本質が明らかになるのだが、それはその瞬間に真実が姿を現したとも言え、実際に会ったこととほとんど変わりない。

だからこの作品を訳すときには、作者にとっての真実が表現された作品だと考えて訳した。読者の皆様はどのようにお感じになるだろうか。

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