2017年12月9日土曜日

「アジェのインスピレーション」

東京都写真美術館の「アジェのインスピレーション ひきつがれる精神」に行きました。
パリ市内や郊外の様子を撮った写真は、弱めのコントラストの美しいプリントでした。販売されていた図録もよかったです。

アジェはパリの風景を記録にとどめましたが、それはル・セックやシャルル・マルヴィルといった写真家たちと変わるものではありません。またアメリカで写真を撮ったウォーカー・エバンスと変わるものではありません。
しかし、アジェの写真は何かが違っています。
その魅力を作り上げているのは、パリの街並みという被写体が持つ詩情、変化するパリを記録にとどめようとする社会の要請、そして写真家が被写体を見出し、写真に対して自己を投影するあり方が、アジェの場合は、まったく前例のないものであったということ、そしてマン・レイやベレニス・アボットやジュリアン・レヴィのような周囲にいた人たちのシュルレアリスムの考え方、それらが重なったものだという気がします。
本来はアジェの写真は非常に静的なのですが、ベレニス・アボットの目を通したアジェはもっと動的になっています。印象に残る写真たち、日蝕を見る人々、大道芸人、娼家などの写真は彼女のプリントによるものです。
彼の写真には彼を取り上げた人間たちの思想が渦巻き、彼の写真を受け取る側の人間の心情がからみあい、アジェその人の姿は謎に包まれ、真の姿を見出すのは難しいことを感じました。

2017年11月12日日曜日

ローベルト・ムージル作「愛の完成」

ローベルト・ムージル作「愛の完成」を翻訳しました。
(2017年11月12日に翻訳を改訂しました。)

愛の完成(全文テキストファイル)


2017年10月14日土曜日

「澁澤龍彦 ドラコニアの地平」

世田谷文学館の「澁澤龍彦 ドラコニアの地平」に行きました。
僕にとっての澁澤は、何よりもヨーロッパの文学・芸術の紹介者でありました。この展覧会では彼の著作の原稿を見ることができました。
「サド公爵の幻想」(1954年)の万年筆の角張った細い字。「悪徳の栄え」(1954年)のほとんど直しのない原稿。下書きが他にあったのかは分かりませんが、最初からほぼ完全な原稿。
「高丘親王航海記」(1987年)の丸っこい鉛筆の字は初期の頃とは違う印象を受けました。間隔を空けた行の間に青インクで修正の文字。きちんとバランスを保ちながら紙面に配置された読みやすい文字。それは手紙のように罫線のない紙面であっても変わっていませんでした。
現在では澁澤よりももっと詳細な知識を持ち、誰も知らないような作家や芸術家を紹介できる評論家はいるでしょう。けれども彼ほどに社会全体の中で、読者の知識教養とのバランスを保って紹介の文章をかける人はいるでしょうか。彼の本質は知識の該博さではなく、読者との関係を忘れない平衡感覚にあると思いました。
土方巽の葬儀の席での追悼の録音が場内に流れていました。甲高いしわがれ声。病の兆候があったのかは分かりませんが、晩年の、老人といってもおかしくない声。
若い読者は彼に若々しさや親しみやすさを感じるかもしれません。けれども彼の本質は高踏な文学を愛する狷介な学者。その親しみやすさは彼が自ら望んで獲得した仮面であるということを感じました。

2017年10月8日日曜日

ボストン美術館浮世絵名品展 鈴木春信

千葉市美術館での「ボストン美術館浮世絵名品展 鈴木春信」に行きました。
「絵歴交換会の流行と錦絵の誕生」コーナーでは、絵歴(陰暦では大の月小の月が年ごとに変わるから、それを書き記したもの)に浮世絵が添えられたものが展示されていました。
実用的な絵歴にグラビアの美女を配したような感じがありましたが、一方では、着物や帯にこっそりと数字(例えば小の月を表す数字)を潜ませたりして、パズルのような趣もありました。
見立絵も多かったです。元々は男であったはずの逸話の登場人物を美女に代えていました。男女を取り替えたというよりも、目の喜びを重視し自由さを獲得したという感じがしました。春信の男女はみな華奢な体つきですが、その若々しい感じが軽さ自由さにつながっていました。
画面上部に和歌を配する絵も多かったですが、絵だけで一つの世界を構築しようとする気張った感じでなく、和歌と絵とで協力して一つの世界を作ろうとする、余裕ある態度を感じました。
誰もがあげるであろう「見立那須与一 屋島の合戦」はやはり素晴らしかったです。着物の模様で平家の船団を示し、背景の茄子畑で那須与一を示し、扇子を構える女と恋文を矢につがえようとする若者とを配して絵の世界と物語の世界とが見事なバランスを保っていました。
当時評判になった美女たち(鍵屋お仙や本柳屋お藤など)を描いた絵では、実際に彼女たちを見に行くであろう江戸庶民たちへの格好のガイダンスとなっていました。浮世絵ですから、彼女たちの容姿を克明に模写するのでなく、訪問のきっかけ、現実を思い出す契機として存在していました。それでいて、背景の描写は的確で、不足のない見事なものでした。
春信の後継者の浮世絵をみると、いかに春信自身の筆が入念に配慮された名人のものであるかが分かります。和歌を配するための雲形の線も単調でないのでした。
ボストン美術館の浮世絵の発色はよいものです。空摺の凹凸もはっきりとわかり、感謝したくなります。

ボストン美術館浮世絵名品展 鈴木春信
会期 2017年9月6日(水)- 10月23日(月)
開館時間 10時~18時(金・土曜日は20時まで)※入場受付は閉館時間の30分前まで
休館日 10月2日(月)
会場 千葉市美術館 〒260-8733 千葉市中央区中央3-10-8 TEL:043-221-2311

2017年6月28日水曜日

特撮「ケテルビー」

NHK-FMでのクラシック音楽番組「きらクラ!」を聴いていたら、特撮の「ケテルビー」が流れた。この曲にはケテルビーの「ペルシャの市場にて」を引用している箇所があるから、クラシックの曲をオリジナルとしたポピュラー音楽のコーナーで流れた。

すごい詩だった。主人公は打ちひしがれている。本質を見出そうとしなかったせいで、裏切られたというのだ。そして女は猫であるのか、パンであるのか、タニシ(!?)であるのか、悩んでいる。
どうして女が猫であったり、パンであったり、タニシであったりできるか?それは主人公がある一人の女を、どのようにとらえていたかという比喩だろう。

愛玩の対象としてか(猫)、食事を共にする(あるいは食事を作ってくれる)対象としてか(パン)、それとも精神的なつながりに満足を見出す対象(天使=タニシの言い換え)としてか?
主人公はおそらく、その女の本質をまちがえたか、自分がどの面を重要視しているのかを自分で見誤ったのだろう。そして別れることになったのだろう。
しかし最後に主人公は立ち直る。絶望に陽だまりの暖かさを見出し、パンはまだ一斤もある!と叫ぶ。
(これは食事を作ってくれる女の比喩とはとらえない。パンを食べて元気を出し、また明日も生きるという宣言ととる。)


大槻ケンヂの絶唱に多重録音で覆いかぶさってくる男女のナレーションは詩を何十倍にも高めている。ケテルビーのメロディーラインは合唱で歌われ、賛美歌のように響く。すごい曲だった。

2017年5月23日火曜日

ムージル「愛の完成」の翻訳(全文テキストファイル)

ローベルト・ムージル作「愛の完成」を試しに訳してみました。
(翻訳を改訂しました。)

愛の完成(全文テキストファイル)

翻訳を改訂したため削除しました。

2017年4月22日土曜日

ミュシャ展

国立新美術館でのミュシャ展に行きました。
入口を入ってすぐにスラヴ叙事詩が展示されていました。絵の巨大さは小さい絵とは異なる世界を生み出していました。
「ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛」は映画を観ているような気になります。逃げ惑う人々の姿や燃えさかる塔の様子など。きわめて現代的な物語描写です。
「聖アトス山」は地上の世界と天上の世界が共存した絵となっており、天上界の描写の壮大さに圧倒されます。異なる世界を同時に画面に共存させるのはミュシャ得意の作風なのでしょうが、それはまた、彼の絵は宗教や政治思想をテーマとして画面に描くことが多くなることを実感させるものでした。人物の背景に思想、政治、宗教が擬人化され描かれる。その人間を越えた巨大な存在。
アールヌーヴォーの作品も展示されていました。観客の人たちから「かわいい」という言葉があがるほどに現代のイラストレーションに通じる親しみやすさと美しさでした。

会場 国立新美術館 企画展示室2E
会期 2017年3月8日(水) - 6月5日(月)
開館 午前10時 - 午後6時
   毎週金曜日、4月29日 - 5月7日は午後8時まで
休館 毎週火曜日
   5月2日は開館

2017年3月9日木曜日

人人展(東京都美術館)

東京都美術館2階第4展示室での人人(ひとひと)展に行きました。
藤林叡三さんは「重い扉」のような映画の場面を切り取ったような作品、「窓と停戦」のようなコラージュ的作品、リアリズムや奇想の作品など、様々な作品を写実的な確かな筆遣いで描いていました。
尾藤敏彦さんは絵画と彫刻でした。絵画は腐蝕したようにおぼろげな画面に、女体の曲線と男性器のイメージとが絡み合っていました。ギーガーの絵や谷敦志さんの写真を連想しました。彫刻はやはり錆びた金属によって女体と男性器とが形作られていました。
以上の2人は別格の圧倒的な存在感でした。

私の目当ては相馬俊樹さんの本で見かけてから注目している亀井三千代さんでありました。春画と解剖図とを合わせたようなエロティックで軽やかな雰囲気の作品です。肉体だけを描いているので匿名のエロティシズムを感じることが出来ます。作家さんと少しだけお話しできたこともうれしかったです。写真可とのことだったので撮ってみました。

4月の湯島羽黒洞での個展も楽しみです。

2017年2月26日日曜日

加山又造展(日本橋高島屋)

日本橋高島屋の加山又造展に行きました。
個人所蔵の作品が多く出展されていて、国立新美術館での加山又造展とは少し印象が違っていました。
月光波濤(1979年、イセ文化基金蔵)や龍図(1988年、光ミュージアム蔵)のような大作が印象に残りました。琳派の水墨画の技法を現代的な感覚で使っていて新鮮です。
紅白梅(1965年、個人蔵)は尾形光琳の紅白梅図を元にして光琳の技法を想像して描かれたそうです。例えば流水の部分は硫化銀を使ったのではないか、というように。
展覧会は横浜〜大阪〜京都と巡回します。

2月22日(水)- 3月6日(月)
日本橋高島屋8階ホール
入場 10時30分 - 19時(19時30分閉場)

2017年1月3日火曜日

フルトヴェングラー変奏曲

NHK-FMで「フルトヴェングラー変奏曲」としてフルトヴェングラー特集の4日連続放送がありました。名盤として誉れ高い演奏を紹介しつつ、ルツェルンでのリハーサル音源なども流したりして興味深い放送でした。

第九は第四楽章のみを1942年の録音と1951年の録音とで流していました。1951年はバイロイト音楽祭のライブのうち、バイエルン放送協会の録音の方を流しており、巷間「バイロイトの第九」と呼ばれている方ではありませんでした。ゲストの相場ひろさんは「同日のライブ録音が2つあるということは、片方はゲネプロなどの音源をつぎはぎしたものなのではないか」と言っていました。「バイロイトの第九」の方がリハーサル音源とのつぎはぎだ、との断定は慎重に避けていました。
私自身はフルトヴェングラーのベートーヴェン録音で聴くことがあるのは第九番の第三楽章(フィルハーモニア管弦楽団との演奏)なのですが、バイエルン放送協会盤の方も聴いてみたくなりました。

ゲストの宮本文昭さんは指揮者として、オーボエ演奏者としての立場から、フルトヴェングラーの指揮ぶりを徹底的、粘着質的と指摘しつつ、オーケストラの素晴らしさに裏付けされた、聴衆の心をとらえる演奏の素晴らしさを語っていました。
最後に語っていたことは「ベートーヴェンの作品は第九で終わったのではない。彼はその後も作品を書いた。ベートーヴェンの作品には一種こけおどしの面があるが、彼の作風は交響曲の後、さらに変わった。後期の弦楽四重奏曲がそれにあたり、そこにはベートーヴェンの真骨頂、虚飾を排した作品たちがある。そして後期の弦楽四重奏を弦楽合奏に編曲した版があり、バーンスタインはその録音を残している。フルトヴェングラーがそれらの作品とどう対峙するのか、録音があればぜひ聴きたかった。」でした。
それに対してゲストの相場ひろさんは答えます。「『大フーガ』ならあります。」と。

ここでお知らせしておきましょう。大フーガ以外にもフルトヴェングラーがベートーヴェンの弦楽四重奏(弦楽合奏編曲版)を演奏した録音があります。
「Beethoven: War Time Recordings」(Andromeda)
をお聴きください。作品130の弦楽四重奏曲から「カヴァティーナ」を弦楽合奏に編曲した版をフルトヴェングラーが指揮しています。戦時中の録音であり当時フルトヴェングラーは壮年期の気力が充実していた時期ですが、静かな枯淡の境地とも表現できるような演奏です。