2019年3月19日火曜日

カフカ「変身」ムージル「愛の完成」ほか日本語訳


カフカの『判決』『変身』『家長の心配』、ムージルの『愛の完成』『夏の日の息吹』を翻訳しました。
(カフカの『判決』のテキストファイルを改訂しました。pdfファイルと同じ内容にしました。2019年6月19日)
今までそれぞれが別の記事に分かれていましたが、今回一つの記事にまとめました。

翻訳文のテキストデータにリンクを張りましたので興味がおありでしたらお読みください。「田中一郎訳」を表示してくだされば二次利用は自由です。非営利での利用をお願いします。改変してもかまいません。


フランツ・カフカ

『判決』クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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『変身』クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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(底本としてFischer社の版を使用しました)


『家長の心配』クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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ローベルト・ムージル

『愛の完成』クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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『夏の日の息吹』(1942年、『特性のない男』より)クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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(底本としてRowohlt社の版を使用しました)


カフカ『判決』について。

『判決』における文章は、ゲオルクに都合のよいように嘘をつき、真実を隠してあいまいな記述をしていると思います。

冒頭に“Haus”という単語が出てくるのですが、これを「家」と考えて「友人が家から出る」「友人を家に戻す」という意味だとすれば、友人=兄弟という可能性もあります。(ゲオルクの分身という可能性もあるけれど。)

父が「ペテルスブルクに友人はいない」「お前の友人のことはよく知っている」という発言も、「ペテルスブルクに友人はいない(兄弟ならいる)」「お前の(言うところの)友人のことはよく知っている」と言っているとすれば、父は首尾一貫した真っ当な発言をしていることになります。

また、ゲオルクが住んでいる家は川沿いの日の当たらない家ですが、彼が貧しいのだとすれば、「店の収入は五倍になった」という景気の良い文章は疑わしくて、“schloß Geschäfte ab”という表現も「店をつぶした」という意味である可能性があります。

そして、店がつぶれたのが少し前の話だとすれば、父が「あの嫌な女」と言っているのも、現在の婚約者であるフリーダ・ブランデンフェルトではなくて、「前の婚約者」かもしれません。

ゲオルクはフリーダとの婚約の前に「どうということもないつまらない男」の婚約について手紙を書いていますが、それが彼自身のことだとすれば、「前の婚約者」が存在する可能性があります。

そう考えてくると、父が「お前についての報告はこのポケットの中だ」と言いますが、その後に続くべき文章も、「(それが公開されれば)父の面目は丸つぶれ」ではなくて「ゲオルクの面目は丸つぶれ」になります。

いずれにしても、ゲオルクは何か非難されるようなことをして、父は真っ当に彼を責めているのだという考えです。まあ彼が何をしたにせよ、彼の最大の罪は(少しふざけた言い方をすれば)、真実を読者に隠したということなのかもしれませんが。

ただし、父が最後にゲオルクに死を宣告して、ゲオルクがそれを受け入れるのは虚でしょう。ゲオルクがどのような悪いことをしたにせよ、彼の死には必然性がありません。嘘をついていた地の文章の最後にまた嘘が出て来たということです。

会話文が信用できないのではなく、地の文が信じられないというというのも変ですが、例えば体験話法のように三人称でありながら限りなく一人称に近づく文章があるように、地の文がゲオルクの都合の良いように書かれているということだと思います。


ムージル『愛の完成』について。

『愛の完成』のクラウディーネの身持ちの悪さの原因の一つには、彼女の不感症的傾向があると思います。ただし、それはかすかにほのめかされるだけですが。

例えば、夫との会話での「あなたから愛されても私はもう何も感じなかった」という発言。あるいは、「彼女の体は、それ自体が感じたものを、まるで故郷のようにぼんやりとした障壁となって覆っており、肉体自体が感じたものは、他の誰よりも近くにいる彼女のものとならなかった。」という文章。

いずれも別の意味にも解釈できるあいまいな表現ですが、このようなほのめかしは底流のように作品全体を流れ、ときどき姿を現します。

この小説では地の文だけでなく、会話文も難解な表現が使われています。例えば、彼女が出会う参事官は「まるでおとぎ話ですね。田園風景、魔法をかけられた陸の孤島、美しい女性。あらゆるものが繊細な純白の下着を身にまとうのだった…」と言います。この訳文は、車窓の外に広がる雪景色になぞらえて、クラウディーネの下着姿がほのめかされているという解釈なのですが、原文の構造をそのまま訳してもこうはなりません。

この行きずりの男に対してクラウディーネはいったん嫌悪を感じるわけですが、そう言っているそばから本当は彼に心奪われているわけで、いったん別れた後も彼のことを思い浮かべるたび、「彼に会いに行こうとしている自分に気付き、それがどのような結果をもたらすかを考えると、たちまちその想像は彼女の体を冷たくとらえてしまった。」という有様です。

やがて彼女は自分の部屋で服を脱ぎ捨てて男が来るのを待ち、男の体の下に横たわる彼女自身の姿を(快楽に翻弄される姿、これまで彼女から奪われていた姿を)想像するに至るのです。そしてその夜は何事も起こらなかったものの、次の夜についに彼に身を任せてしまうのです。

最後の場面で彼の発言に出てくる、“ganzer Mensch”という言葉は「全的な人間」「まったき人間」と訳されたこともありますが、今回は「全体として好かれる人間」と訳しました。それは、すぐ後の会話の「あの人の目が好き、声が好き、だからあの人のことが好き、というのはおかしい(=部分的に好きになるだけだ)」「君の言うそれは(全体として)好きになったという徴候だ」という文章につながると考えたものです。

ここでクラウディーネははっきりと、「あなたの目と声が好き、だけどあなたの全部が好きとは認めたくない」と言っているではありませんか。

結局のところ、冒頭から結末まで夫への愛を誓う彼女の独白の裏側には、夫との間で得られぬ絶頂感にあこがれる女の姿が隠れているわけで、そうした隠微な点もこの小説の魅力だろうと思います。