2024年3月10日日曜日

プロフェッショナル仕事の流儀「ジブリと宮﨑駿の2399日」

プロフェッショナル仕事の流儀「ジブリと宮﨑駿の2399日」を観た。かなり以前に録画してあったものを最近になって観た。

画面の中のジブリ社内の机や台所はインテリア雑誌に登場する室内のように美しかった。別荘の山小屋の仕事机も美しかった。宮﨑さんが散歩に出かける近所の景色もまた美しかった。ほんの少しの編集を加えるだけで、それはドキュメンタリーでなく映像作品になるだろう。実際に番組はドキュメンタリーから離れかけていた。現在の映像の間にさかんに過去の映像を挿入する。宮﨑アニメの過去の作品の場面を挿入する。撮影兼ディレクターの荒川格さんの作品と言ってもおかしくないものになっていた。

映像の中の宮﨑さんは常に高畑勲さんのことを意識していた。現在の場面ではすでに高畑さんは亡くなっているが、過去の映像が挿入されるとそこでは高畑さんが笑顔でしゃべっている。気の弱い少年だった宮﨑さんを変えた人。会社の先輩であり、若き宮﨑さんが自分のアニメ作品を完成させる上で指針となった人。常にそばにいて宮﨑さんが優れた作品を生み出すようプレッシャーを与え続けた人。未来少年コナンは宮﨑さんが一人で製作に取り組んだが、一話の絵コンテを描いたところで力尽きてしまい、そこで手を差し伸べたのが高畑さんだったという。ナウシカのラストシーンは高畑さんのアドバイスだったという。

だが何だか不思議な気がする。観客として私から見た宮﨑さんは誰にも負けない面白い作品を作り出すことができる人、何でもないシーンを魔法のように輝かせることができる人であり、高畑さんに畏れを抱く理由などないから。また、私の知っている宮﨑さんは自分の作品に自信が持てないとか、誰か他人の作品が自分より上かもしれないとか、そんなことを考える人ではなかった。

宮﨑さんは自分の弱点がテーマの設定にあると思っていたのだろうか。そして作品のテーマについて深く理解しているのは高畑さんであると。だがどの作家にとってもテーマというものは難しいはずである。そして自分の作品の中でそのテーマを見つけるのは宮﨑さん本人しかあり得ないのであって、高畑さんではない。

テレビアニメの名探偵ホームズを思い出す。何人かの脚本家が交替で脚本を務めていたが、宮﨑さんの回はいつでも面白かった。それは脚本と演出の両方の能力のうち、特に演出の才能が際立って優れているということなのだろうと思う。どんなシーンでも印象に残る面白いものにしてしまう能力。

ルパン三世1stについて言えば、宮﨑さんはシリーズの前半には関わらず、後半から関わっている。だが全体としてみれば、私はシリーズの前半が好きだった。前半の不二子はあくまでも謎の女であり、ルパンに対する誘惑者だった。五ェ門は自分の美学を突き詰めた滑稽な男だった。ルパンには世間に対するニヒリズムと困難に挑む行動力の両面があった。そこには人間ドラマがあり、物語には複雑な陰影があった。

私は宮﨑作品を観るとき、明確なテーマがあり、目標が定まっていて、途中経過はその目標に向かうためにあるような作品を好んでいたのかもしれない。物語が目的地に向かう旅であるとするなら、その道にどのような美しい景色が広がっているか、誰と道中をともにし、どのような会話がなされるか、どのような事件が待っているかで私たちを楽しませてくれるような作品たち。

私は宮﨑作品に明快さを求めていたのかもしれない。例えば戦いの勝利、悪者の退治、少女の救出という明快さ。そのためだろうか、私は公開当時に「千と千尋の神隠し」を理解することができなかった。主人公の前に未知の世界が現れ、つぎつぎ事件が起きるが、それぞれの事件は主人公の内面の変化に影響するのであって物語の結論に影響するのではない。湯屋での騒動は物語がどこかに向っているという感じがせず、電車に乗るシーンは美しいが千尋にとってどのような意味を持つのかわからない。この作品に対する「少女の生きる力を呼び覚ます」という評を見たとき、その解釈は私からは生まれないと思った。どうやら私は宮﨑さんに対して固定観念があり、いつも同じ作品を求めていたようだ。

宮﨑さんは今回の映像の中で「脳みそのフタを開ける」「狂気の境界線まで行かないと映画って面白くならない」という言葉を発していた。可愛らしい少女を描いた健全で穏健な映画を目指しているわけではなかった。少なくとも、醜くドロドロとした危険なものを排除しているわけではなかった。

映像の中で現在の宮﨑さんと過去の宮﨑さんは容姿がかなり違っている。今は髪も白くなり、髭を生やし、やせている。見続けている人はそうは思わないだろうが、別人といってもよいほど違って見える。私の頭の中で宮﨑さんは昔の姿のままであり、現在の姿ではない。高畑さんが隣にいて、仲間内で陽気にはしゃぐ活力に満ちた人の姿。

番組は映画が完成し、日常が始まったことを伝えて唐突に終わる。結論は映画の中で語られるべきものであり、現実の生活は映画の結論とは無関係だと言っているようだ。映像の中で鈴木敏夫さんが「(宮﨑さんにとって)映画の中が現実。現実が虚構」と言っていたように。