2024年4月19日金曜日

私と翻訳(改訂版)

「私と翻訳」を改訂しました。構成が大きく変わっているわけではありませんが、文章の流れが良くなるように書き換え、自分についての説明を少し足しました。

(以下、「私と翻訳」改訂版)
かつて世田谷文学館で澁澤龍彦展が開かれたとき、彼の翻訳原稿を見たことがある。ほとんど書き直しのないきれいな原稿だった。なぜあれほど修正が少なかったのかわからない。下書きが別にあって清書したのだろうか。フランス語と日本語とでは文章の構造がまるで違うはずだが、どのように訳したのだろう。

私が趣味でドイツ語の小説の翻訳を始めたとき、初めて取り組んだのはムージルの「愛の完成」だった。ドイツ語の中でもとびきり難解な文章。すでに古井由吉さんの翻訳があるのにさらに翻訳する価値などあるのだろうか。だが私は人妻の不倫という題材を扱ったこの小説を、もっと自分好みの訳文で読むことはできないだろうかと思ってしまったのである。翻訳を出版するわけではなく、趣味として自分だけのために訳すのだから実力不足であってもかまわないだろう。初めのうちはこの名詞は4格だからこの動詞の目的語だ、などといちいち考えながら(初歩的すぎると呆れないでほしい)一歩一歩進んでいった。

締め切りもなく、自分の楽しみのために翻訳をすることは実は楽しいことである。翻訳を始めた当初は精神的に少し不安定だったが、一つの文章に徹底的に集中して考える行動は心の安定のためによかった。原文はどれほど時間が経っても変わらずにそこにあり、いつまでも待ってくれる。翻訳文を作るときは一つの文章ならそれほど長い時間がかかるわけではない。問題に対して比較的短時間のうちに自分なりの解答が得られるのは良いことだ。あとはそれを繰り返すのである。その場合も「愛の完成」のような中篇程度の長さであれば、長い作業だという感覚の中に、時間はかかるだろうがいつかは終わるという安心感がある。やがて翻訳の文章は少しずつ増えてゆき、自分の歩みを形として実感できる。自分はこれだけ進歩したのだ、と。

翻訳の文章の書き直しにはどこかオーディオ機器のセッティングにも共通するものがあると思う。プレーヤーは、アンプは何にするのか、スピーカーはどのように配置するのか、ケーブルは何を選ぶのかなど、やるべきことはたくさんある。だがそれはある意味で音のバランスを整えているようなところがある。高い物を買えば買うほど音がよくなるというものではない。低音から高音まで、柔らかい音から鋭い音まで、凹凸があるのを平らにする、バランスを整えて自分の好みの音を作っているというべきだろう。

翻訳について考えてみても、自分の好みを押し通すだけでなく、読者にとってどのような文章が分かりやすいか、どんな単語を選びどんな文章構造にするのか、あれこれ考えながら翻訳文を作ることになるだろう。原語の文章構造を考え、その意味を上位概念で把握し、それからその意味を表現するような日本語を考える。いったん上位概念に上がり、また具体的な文章に下ってくるような感じと言ったらよいだろうか。

ときどき思うのだが、現に書かれている文章よりも上のレベルで物事を考えることは、今の自分を高めようとする意識とどこかでつながっているのかもしれない。その場合の自分を高めるとは、優れた人間になるというようなものではなく、バランスが取れた状態を目指すという意味になるだろう。体の調子が整っているとか、心の安定が保たれているということ。

「愛の完成」のときは何度も推敲して何度も訳文を書き換えた。それは後から読み返すと不満を感じたからだが、自分の文章を何度も読んでいるうちに慣れてしまい感動できなくなったという理由もあったかもしれない。そう考えれば、翻訳を何度も書き換えることも、どんどん高みへと昇ってゆくようなものではなく、自分に対して新しい存在、新鮮な驚きを与えてくれる文章を求める旅のようなものになるだろう。

宮澤賢治も何度も自作を書き直す人だった。作品が完成してからも何度も改訂を加えているが(「銀河鉄道の夜」は飛び抜けて有名だが、それ以外にも改訂している作品は多い)、それはその時点で最もよい形態にするものであり、決定稿、最終稿を求めるという感じではないのだった。それは彼にとって日々の暮らしとともにあるもの、修行のようなものだったのかもしれない。

「トニオ・クレーガー」を翻訳したときは以前ほど書き直すことはなかった。翻訳の際の自分の文章がやっと固まってきた、書き直すにしてもすべてを最初から書き直すのでなく、修正にとどめることができるようになったということなのだろうか。そう考えれば、趣味で翻訳を始めてから時間が経ち、今やっとスタートラインに立ったといえるのかもしれない。

自分が進歩していると感じること、自分にとって世界が新鮮な驚きに満ちていること。翻訳という作業がそんな喜びに満ちたものであったらすばらしい。そんなことを願ってやまない。

2024年3月10日日曜日

プロフェッショナル仕事の流儀「ジブリと宮﨑駿の2399日」

プロフェッショナル仕事の流儀「ジブリと宮﨑駿の2399日」を観た。かなり以前に録画してあったものを最近になって観た。

画面の中のジブリ社内の机や台所はインテリア雑誌に登場する室内のように美しかった。別荘の山小屋の仕事机も美しかった。宮﨑さんが散歩に出かける近所の景色もまた美しかった。ほんの少しの編集を加えるだけで、それはドキュメンタリーでなく映像作品になるだろう。実際に番組はドキュメンタリーから離れかけていた。現在の映像の間にさかんに過去の映像を挿入する。宮﨑アニメの過去の作品の場面を挿入する。撮影兼ディレクターの荒川格さんの作品と言ってもおかしくないものになっていた。

映像の中の宮﨑さんは常に高畑勲さんのことを意識していた。現在の場面ではすでに高畑さんは亡くなっているが、過去の映像が挿入されるとそこでは高畑さんが笑顔でしゃべっている。気の弱い少年だった宮﨑さんを変えた人。会社の先輩であり、若き宮﨑さんが自分のアニメ作品を完成させる上で指針となった人。常にそばにいて宮﨑さんが優れた作品を生み出すようプレッシャーを与え続けた人。未来少年コナンは宮﨑さんが一人で製作に取り組んだが、一話の絵コンテを描いたところで力尽きてしまい、そこで手を差し伸べたのが高畑さんだったという。ナウシカのラストシーンは高畑さんのアドバイスだったという。

だが何だか不思議な気がする。観客として私から見た宮﨑さんは誰にも負けない面白い作品を作り出すことができる人、何でもないシーンを魔法のように輝かせることができる人であり、高畑さんに畏れを抱く理由などないから。また、私の知っている宮﨑さんは自分の作品に自信が持てないとか、誰か他人の作品が自分より上かもしれないとか、そんなことを考える人ではなかった。

宮﨑さんは自分の弱点がテーマの設定にあると思っていたのだろうか。そして作品のテーマについて深く理解しているのは高畑さんであると。だがどの作家にとってもテーマというものは難しいはずである。そして自分の作品の中でそのテーマを見つけるのは宮﨑さん本人しかあり得ないのであって、高畑さんではない。

テレビアニメの名探偵ホームズを思い出す。何人かの脚本家が交替で脚本を務めていたが、宮﨑さんの回はいつでも面白かった。それは脚本と演出の両方の能力のうち、特に演出の才能が際立って優れているということなのだろうと思う。どんなシーンでも印象に残る面白いものにしてしまう能力。

ルパン三世1stについて言えば、宮﨑さんはシリーズの前半には関わらず、後半から関わっている。だが全体としてみれば、私はシリーズの前半が好きだった。前半の不二子はあくまでも謎の女であり、ルパンに対する誘惑者だった。五ェ門は自分の美学を突き詰めた滑稽な男だった。ルパンには世間に対するニヒリズムと困難に挑む行動力の両面があった。そこには人間ドラマがあり、物語には複雑な陰影があった。

私は宮﨑作品を観るとき、明確なテーマがあり、目標が定まっていて、途中経過はその目標に向かうためにあるような作品を好んでいたのかもしれない。物語が目的地に向かう旅であるとするなら、その道にどのような美しい景色が広がっているか、誰と道中をともにし、どのような会話がなされるか、どのような事件が待っているかで私たちを楽しませてくれるような作品たち。

私は宮﨑作品に明快さを求めていたのかもしれない。例えば戦いの勝利、悪者の退治、少女の救出という明快さ。そのためだろうか、私は公開当時に「千と千尋の神隠し」を理解することができなかった。主人公の前に未知の世界が現れ、つぎつぎ事件が起きるが、それぞれの事件は主人公の内面の変化に影響するのであって物語の結論に影響するのではない。湯屋での騒動は物語がどこかに向っているという感じがせず、電車に乗るシーンは美しいが千尋にとってどのような意味を持つのかわからない。この作品に対する「少女の生きる力を呼び覚ます」という評を見たとき、その解釈は私からは生まれないと思った。どうやら私は宮﨑さんに対して固定観念があり、いつも同じ作品を求めていたようだ。

宮﨑さんは今回の映像の中で「脳みそのフタを開ける」「狂気の境界線まで行かないと映画って面白くならない」という言葉を発していた。可愛らしい少女を描いた健全で穏健な映画を目指しているわけではなかった。少なくとも、醜くドロドロとした危険なものを排除しているわけではなかった。

映像の中で現在の宮﨑さんと過去の宮﨑さんは容姿がかなり違っている。今は髪も白くなり、髭を生やし、やせている。見続けている人はそうは思わないだろうが、別人といってもよいほど違って見える。私の頭の中で宮﨑さんは昔の姿のままであり、現在の姿ではない。高畑さんが隣にいて、仲間内で陽気にはしゃぐ活力に満ちた人の姿。

番組は映画が完成し、日常が始まったことを伝えて唐突に終わる。結論は映画の中で語られるべきものであり、現実の生活は映画の結論とは無関係だと言っているようだ。映像の中で鈴木敏夫さんが「(宮﨑さんにとって)映画の中が現実。現実が虚構」と言っていたように。

2024年2月6日火曜日

私と翻訳

かつて世田谷文学館で澁澤龍彦展が開かれたとき、展示されていた彼の翻訳原稿を見た。ほとんど書き直しのないきれいな原稿だった。フランス語と日本語とでは文章の構造がまるで違うはずだが、どのように訳したのだろう。日本語の長い文章を頭の中で組み立てて一気に書いた、ということなのだろうか。

私が趣味でドイツ語の小説の翻訳を始めたとき、初めて取り組んだのはムージルの「愛の完成」だったが、まず日本語として成立する文章になるまで何度も書き直し、全文の翻訳が終わってからも数え切れないくらい訳文を書き換えるはめになった。後から読むと不満な箇所だらけだったから。だが適切な文章を探して自分の書いた文章を推敲し、何度も書き直すのは、実は楽しいことでもある。文章を書き直すたび、自分は進歩しているのだ(それが錯覚であろうとも)という気がしてくるからだ。

宮澤賢治も何度も自作を書き直す人だった。作品が完成してからも何度も改訂を加えているが(「銀河鉄道の夜」は飛び抜けて有名だが、それ以外にも改訂している作品は多い)、それはその時点で最もよい形態にするものであり、決定稿、最終稿を求めるという感じではないのだった。それは彼にとって、人生において日々の暮らしとともにあるもの、修行のようなものだったのかもしれない。

翻訳の文章の書き直しというと、私はオーディオ機器のセッティングにも共通するものを感じている。プレーヤーは、アンプは、スピーカーは何を買ったらよいのか。スピーカーはどう配置するのか、ケーブルは何を選ぶ、タップはどうする、インシュレーターをどう置く、など。やらなければならないことはたくさんある。

でもそれはある意味で音のバランスを整えているようなところがある。例えば直接音を出していないケーブルやインシュレーターについて、高い品物を買えば買うほど音がますますよくなるとしたら何だかおかしいではないか。低音から高音まで、柔らかい音から鋭い音まで、凹凸があるのを平らにする、こうあってほしい音の響きを出す、あちらを引っ込めこちらを出っ張らせて好みの音を作っていると考える方が自然だろう。

翻訳についても、自分の好みを押し通すだけでなく、読者にとってどのような文章が分かりやすいか、どんな単語を選びどんな文章構造にするのか、あれこれ考えながら翻訳文を作ることになるだろう。あるいはそれは、日々の暮らしをどのように行うかとどこかでつながっているともいえる。体の調子が整っているとか、心の安定が保たれているとか、バランスが取れている状態を目指すという意味で。

翻訳のとき人は原語の文章構造を考え、その意味を上位概念で把握し、それからその意味を表現するような日本語を考える。いったん上位概念に上がり、また具体的な文章に下ってくるような感じと言ったらよいだろうか。いま書かれている文章よりも上のレベルで物事を考えることは、今の自分よりも上の状態を目指すこととどこかで共通しているだろう。そして具体的な文章が目の前に現れたとき、それは自分に対して新しい存在、新鮮な驚きを与えてくれるものとなるだろう。

自分が進歩していると感じること、自分にとって世界が新鮮な驚きに満ちていること。翻訳という作業がそんな喜びに満ちたものであったらすばらしい。そんなことを願ってやまない。