2019年10月16日水曜日

さびしんぼうについて(時をかける少女に触れながら)

 大林宣彦監督の映画「さびしんぼう」は、山中亘「なんだかへんて子」を原作としている。
 「なんだかへんて子」は、小学生の男の子が主人公で、その子の身の周りにある日、見たこともない女の子が突然現れ、彼女に振り回されるうち、どうやらその子は子供時代の母親であるらしい、ということが分かってくるという話である。最後には彼女との別れがあり、母親との(今までとほんの少しだけ意識のあり方が変わった)生活が待っている。

 映画「さびしんぼう」の方は、もう少し複雑になる。主人公(ヒロキ)の年齢は高校生に引き上げられる。彼には気になる他校の女子がいる。遠くから見ているだけで、何者なのかも分からない。彼は自分でその子に〈さびしんぼう〉と名前をつけることにする。(彼の造語である。)そこへ、突然、少女時代の母親が現れる。舞台衣装を着けて、ピエロのメイクをして、彼女も〈さびしんぼう〉と名乗る。そして彼女は十六歳のときの母親であり、誕生日を過ぎて十七歳になると消えると説明されている。そして、この二人のさびしんぼうは、ともに同じ俳優(富田靖子)が演じるのである。
 さびしんぼうがヒロキに語って聞かせる、ある少女の挿話がある。少女が少年に恋をして、そして振られる。少女は別の男と結婚して、先の少年にそっくりの子供を産む。そしてだんだん、おばあさんになっていく…彼女は少女時代の母親がどのような恋をしたか、現在に演じてみせているのである。相手の少年はピアノが弾けて頭のよい子だったらしい。少女時代の母親の想い人である少年は、現在のヒロキとは似ていない。

 監督はこの物語について、「少年は永遠に母親を恋し、少女はいつでも未来の息子を恋しているという物語だ。」と語っている。[1]
 実際に映画化するにあたって監督が考えたこと。それは、十六歳当時の母親を画面の中に登場させるにしても、現在の母親と十六歳の母親は、当然、別の俳優が演じることになり、同一人物であるという表現が難しくなる。そこで、あえてもう一人の少年の想いの結晶としての同年齢の少女を創造し、彼女と十六歳の母親とを同じ俳優に演じさせたという。ここでの同年齢の少女とは、未来の妻としての少女である。そして両者に扮装劇のようなメイクアップを施したという。想いの少女は典型的なマドンナ像。少女時代の母親の方はピエロのような白塗りのメイク。
 「その固定された表情の中から、じつは同一の俳優のもつ生身の生命感がほとばしるようにのぞくとき、この禁じられた肉体からある種の心の想いが垣間見えるかもしれない。その想いをこそ、ぼくは《さびしんぼう》と命名したのだ。」[1]

 (非常に複雑な仕掛けが施されている。けれども、観客がこの通りに感じるかどうかは分からないと思う。)

 そんなある日、ヒロキの想い人である彼女は、彼のすぐ目の前に姿を現す。通学の自転車のチェーンが外れて、止まってしまったのである。すぐに彼は助けるのだが、それで話をすることができた。チェーンははまらず、その自転車を持ち上げて家まで送るということになる。彼女は橘百合子と名乗る。会話を交わすことはできたのだが、ヒロキから見た姿が描かれるのみで、彼女の詳しい内面は分からない。そして何日か後に、唐突に百合子の方から別れが告げられる。その理由は正確には分からない。最後の別れの場面で、母親が病気であるらしいこと、家計が苦しいらしいことがかすかにほのめかされている。そんな調子なので、百合子との別れは哀切なものとはならない。

 (別れ際、百合子はヒロキからのプレゼントを包んでいたリボンの飾りを落とす。これを見て大林監督は「しめた!」と思ったという。シナリオにも撮影の予定にもなかったことだったが、人知を越えた奇跡が起きて名場面が誕生したというのだ。[2] けれども、もう一度見てみると、富田靖子の手が動いて故意に落としているように思えてならない。真相は不明である。)

 これに対して、さびしんぼうとの別れのシーンは忘れ難い印象を残す。何度観ても、雨の降りしきる石段にさびしんぼうが座って待っているシーンには心揺さぶられるものがある。別れ際に、さびしんぼうはヒロキに向かって恋心を打ち明ける。さびしんぼうは百合子と同じ俳優が演じているので、それは百合子がヒロキに想いを告げたようにも見える。同時に、少女時代の母親が想い人である少年に恋心を打ち明けたようにも見える。つまり、さびしんぼうとは単なる一人の人間なのではなく、複数の人間の想いが交錯する場になっているのである。さびしんぼうはピエロのメイクをして演技をしていることを思い出してほしい。それは、自分を消し去って役の存在になる俳優に近い。俳優のしていることは、単に別の人間になるだけではなく、別の人間を演じることを通して、匿名の存在となって、観客一人一人にとってまるで自分自身の想いを体現するような、抽象的な存在になるということである。

 大林監督作品には「時をかける少女」という映画があって、その中で監督は俳優を演出の型にはめ込むことで、逆に、その俳優が輝く瞬間を生み出そうとしていた。それによって、「時をかける少女」の原田知世は、彼女本人を越えるような、これ以上ない輝きを放っていた。
 大林監督が「時をかける少女」の原田知世を評した言葉。
 「原田知世は、きっちり、役と対話できるんです。自己の存在感を一度、抹消して、役の芳山和子としてスクリーンの中でよみがえる。そういう才能を持っているんです。これは思えば、五十年代の少女スターたちが、映画館の暗闇の中にのみ、ほのかな夢のように息づいて、白日のもとでは遠い記憶のように消滅してしまう、そういうはかなさを持っていたからこそ、スクリーンの中での存在感を得ることができた、そういうことと似ているのかもしれない。」[3]

 (この映画での原田知世は、ただ芳山和子になるだけでなくて、抽象的な匿名の少女になっていたと思う。そのような「映画の神様が降りてきた」ような現象は、この映画と「さびしんぼう」に起きていたと思う。)

 「さびしんぼう」は大林監督が人生の持ち時間をたっぷり使ってシナリオを練ったという。[4] だが、「なんだかへんて子」を原作にして、それと組み合わせようとしたのは今回の映画化が決まってからのことであり、一人二役の複雑な構成は、おそらく今回初めて現れたものなのだろう。さびしんぼうにはピエロのような白塗りのメイクを施し、百合子の方は典型的なマドンナ像に描き、個性が際立つような演出はしていない。それなのに、なぜ二人の別れの場面があれほど感動的かといえば、さびしんぼうが人間を越えた抽象的な存在となり、人を想うことの純粋さが表現されているからだろう。監督も予想しなかった効果によって、これほど感動的な作品が生まれたと思うのだが、どうだろうか。

[1]「なんだかへんて子」(偕成社文庫)解説・大林宣彦
[2]「大林宣彦の a movie book 尾道」(たちばな出版)
[3]「キネマ旬報」1983年7月下旬号
[4]DVD「さびしんぼう」特典映像「大林宣彦監督が語る『さびしんぼう』」