2021年12月19日日曜日

三浦哲郎と梶井基次郎とチェーホフ


 三浦哲郎は随筆「橇あそび」の中で学生時代に読んだチェーホフの短篇について書いている。ただし作品名は忘れてしまったと書いている。
 三浦の紹介する話は次のようなものである。
 思春期の少女が男友達に橇に乗せてもらって丘の急斜面を滑降する。吹き付ける風の中で、少女は「僕は君が好きだ」という声を聞いたような気がする。だが少女はそれが男友達の声なのか、風の唸りなのか、空耳なのか、判断がつかない。気になった少女はまた橇に乗る。するとまた君が好きだという不思議な声。少女はその声が聞きたいばかりに、麓に着くと言わずにはいられない。「もう一度乗せて。」

 この話に関連して、梶井基次郎に「雪後」という小説がある。主人公は友人から聞いた話であり間違っているかもしれないと断った上で、妻にあるロシアの短篇作家の書いた話を紹介する。それが先にあげたチェーホフの作品なのである。ただし梶井は作家名と作品名を書いていない。
 梶井の紹介する話は次のようなものである。
 男と女が橇に乗り、風が耳元を過ぎる。風の中で女は「ぼくはおまえを愛している」という言葉を聞いた気がする。確かめるためもう一度乗る。また「ぼくはおまえを愛している」という声が聞こえる。だが何度乗っても確かなことはわからない。やがて二人は離れ離れになり、別の相手と結婚する。だが年老いても二人はその日の雪滑りを忘れなかった。

 三浦の「橇あそび」の短篇は梶井の挙げたチェーホフの作品と同じだと判断してよいだろう。
 ところが、ある人によると、三浦哲郎は梶井基次郎の「雪後」という作品を読み、その中に出てくる「ロシアの短篇作家の話」をチェーホフの作品だと思って全集を探したがどこにもなかった、と書いていたという。
 本当に三浦哲郎は全集にあたっても見つけることができなかったのだろうか。もしそうだとしたら、見つからなかったのはなぜだろう。
 先に挙げたチェーホフの作品は「たわむれ」という題名で訳されることが多い短篇であり、たいていのチェーホフ全集に収められている。
 三浦哲郎は「たわむれ」の題名を覚えていなかったにせよ、内容は覚えていたのだから、全集の中にその作品があれば気づいたはずである。
 それとも、三浦哲郎はかつてはチェーホフの全集の中に「たわむれ」を見つけることができなかったが、その後に作者がチェーホフであることは知ることができた、ということなのだろうか。

 集英社の「新訳チェーホフ短篇集」(沼野充義訳)ではチェーホフの作品は「いたずら」という題名に訳されている。
 この本での「いたずら」の印刷の仕方は少し変わっていて、雑誌掲載版と改訂版の両方が載っている。チェーホフは作品の印象が変わるほどの大きな改訂をしていたのだ。作品は初めは一段組で印刷されているのだが、途中から、すなわち雑誌掲載版と改訂版に違いが生まれるところから、印刷は二段組になる。上は雑誌掲載版、下は改訂版。両者の違いが一目でわかるようになっているが、随分と変わった印刷をしたものだ。

 改訂後の「いたずら」は次のような内容である。
 「ぼく」はナジェージュダ(ナッちゃん)を橇に乗せる。飛ぶように滑る橇の勢いが強くなり、耳元に風のうなり声ばかりが聞こえるところで「ぼく」は「好きだよ、ナッちゃん」とささやく。ナッちゃんはその言葉を本当に「ぼく」が言ったのか、風の音を聞き間違えたのか、知りたくてたまらない。二人で何度も橇に乗り、そのたびに「ぼく」はナッちゃんに「好きだよ」とささやき続ける。ナッちゃんはそれが「ぼく」の言葉なのか、風の言葉なのかわからないまま、その言葉に病みつきになり、その言葉なしではいられなくなってしまう。だが橇遊びの季節は終わり、「ぼく」は別の町に行くことになり、彼女にその言葉を言ってくれる人はいなくなる、青白い物憂げな顔のナッちゃんを「ぼく」は塀の陰から見つめ、風が吹くのを待ち受けて、もう一度「好きだよ」という言葉をかける、そのときの嬉しそうなナッちゃんの様子といったら!やがて彼女は別の男と結婚するのだが、あの橇遊びの「好きだよ」という言葉を聞いたときが生涯で一番幸せなときだったのだ、だが「ぼく」はどうしてあんな言葉を言ったのか、何のためのいたずらだったのか、わからない…

 これに対して、改訂前の雑誌掲載版は次のような内容だった。
 橇遊びの季節は終わる。もうナッちゃんはあの言葉を聞くことはできない。あるたそがれどき、「ぼく」はナッちゃんが憂いに満ちた顔を木々に向けているのを目にする。春の風に、あの甘い言葉を運んできて、と願っているようだ。「ぼく」は風が吹くのを待ち受けて、灌木の陰から「好きだよ」と言葉をかける、そのときの嬉しそうなナッちゃんの様子といったら!「ぼく」はナッちゃんに向かって駆けていく…でももうこの辺で結婚させていただきましょう。

 雑誌掲載版の方は理解しやすい。一人の男が女にいたずらを仕掛けるが、結局真相は明かされ、男はいたずらの責任を取って二人は結婚する。
 それに比べて改訂版の方は難しい。「女はその言葉にやみつきになる」「その言葉を忘れられない」「それは彼女にとって生涯最高の瞬間だった」というのは男の見解というより作者自身の見解なのだから。いたずらの件はどうなったのか、よくわからないところもある。

 ここで三浦哲郎がこの物語をどうとらえたかを思い出すと、女が主人公になっているところが面白い。不可解な状況に置かれた彼女が真相を求めて行動する、まるでミステリのような感じもある。結論は書かれていないが、小説の内容を紹介している文章ではないのだから、これはこれでよいともいえる。
 梶井基次郎による解釈の場合は、二人が別れるところは改訂版通りだが、二人の忘れられない思い出に着目して美しい物語になっている。けれどもありきたりの物語になっているようなところもあり、チェーホフの原作とは少し印象が違っているともいえる。

 チェーホフの原作は、最初は男の視点で男のいたずらが書かれるが、途中から作者の視点に変わる。物語はどうなるのだろうと登場人物に感情移入していたら、途中から作者の解説の方が重要な位置を占めるようになっていた、という少し読者を混乱させるところがある。
 改訂前の幸せな結末を無理やり操作して悲しい結末に変えたため、前半と後半が少し分離してしまったような、なんとも居心地の悪い、けれども不思議な印象を残す作品になっているようだ。

2021年8月9日月曜日

シュニッツラー「レデゴンダの日記」「死んだガブリエル」「夢物語」

シュニッツラーの「レデゴンダの日記」「死んだガブリエル」「夢物語」を翻訳しました。「夢物語」は「夢小説」「夢奇譚」「夢がたり」という題名の作品と同じです。ご自由にお読みください。すでに公開済みの翻訳から一部訳文を変更した箇所があります。「田中一郎訳」を表示してくだされば二次利用は自由です。非営利での利用をお願いします。

これらの作品にはすでに日本語訳があり、今回の翻訳にあたって参考にしました。

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2021年7月18日日曜日

シュティフター「水晶」

シュティフターの「水晶」を翻訳しました。ご自由にお読みください。すでに公開済みの翻訳から一部訳文を変更しています。「田中一郎訳」を表示してくだされば二次利用は自由です。非営利での利用をお願いします。

この作品にはすでにいくつかの翻訳があり、今回の翻訳にあたって参考にしました。

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2021年6月19日土曜日

カフカ「変身」「判決」「家長の心配」

カフカの「変身」「判決」「家長の心配」を翻訳しました。ご自由にお読みください。すでに公開済みの翻訳から一部訳文を変更しています。「田中一郎訳」を表示してくだされば二次利用は自由です。非営利での利用をお願いします。

これらの作品にはすでに多くの翻訳があり、今回の翻訳にあたって参考にしました。

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2021年6月5日土曜日

ヴァレリー・ラルボー「幼なごころ」感想

ヴァレリー・ラルボー「幼なごころ」を読んだ。(岩崎力訳、岩波文庫)


「ローズ・ルルダン」

 語り手の名はローズ・ルルダン。寄宿学校の一学年上の女の子に恋をする。ローザ・ケスケル。愛称はレーシェン。少しでも彼女に近づきたくて、自分の名の欄に「ローザ・ルルダン」と書き始める。更衣室に行ってレーシェンのベルトを手に取り、名前に口づけする。南ドイツではローザの愛称としてローゼレがよく使われることを知り、「ローゼレ」と呼びかける…

 好きな人には近づけず、むしろ嫌悪感をもよおすような少女の方に近づき、その少女に向かって話しかけ媚びを売る描写はすごい。少女の感性を的確にとらえるその想像力はアマチュアの域を越え、ディレッタントの域を越え、まぎれもない作家の領域に達している。

 そして名前への愛着、詩的な単語が次々と変奏される点は、読書家であり該博な知識を誇った作家に相応しい。人の名前の音の響き、文字の連なりを変化させ、それによってこの小品が生み出されたのではという気さえする。それでいてそこには好きな人の名前をノートに書いた記憶を呼び覚ますような喚起力がある。


「包丁」

 主人公ミルーは父親がその友人たちと話しているのを聞き、彼らが使う「用益権」「契約」「抵当」などの言葉が理解できない。むしろそれらの言葉は醜悪だと思う。

 訳者あとがきを読むと、作者は仕掛けを施していることが分かる。ユズュフリュイ(用益権)は、果実を意味するフリュイに「ユゼ」(使い古された、すりきれた)という単語を組み合わせたもの。それにミルーの頭の中でに「腐ったリンゴ」というイメージとつながり、読者はそれによっていかに彼の頭の中で醜悪なイメージが作られているかが分かる──だがこれを翻訳するのはとても難しい──ということだそうだ。

 ミルーの普段の話相手は小作人の娘ジュリア、だがミルーは村にやって来た羊飼いの母娘の娘のジュスティーヌに夢中になってしまう。

 父親たちから「将来は何になりたいの?将軍?アカデミー会員?大使?」と聞かれれば「召使いになりたい」と答え、ジュスティーヌに少しでも近づこうと包丁を取り出して自分の手に当てる…

 ミルーの住んでいる世界は本当に小さい。だが「用益権」の世界に出たところで、そこに彼の幸福はない。ミルーはどこへ行くのか?彼の進む先はまったく見えない。やはり彼は読書家の作家へと歩んでいくのだろうか、ラルボーその人のように…


「ラシェル・フリュイティジェール」

 親が月謝を払うことができないのに「貴族的な」学校に入れられてしまった姉妹の話。この姉妹は作者の母と叔母の学生時代の姿だ。ラシェル・フリュイティジェールはその同級生だが、なぜ彼女の名が題名になっているのだろう。彼女は月謝の払えない姉妹の姿を見て、自分も月謝を持ってこなかったと嘘をついた。精一杯二人の味方になろうとした。たった一つの優れた行動があればその主は讃えられる。その思いの深さは愛情にまで達していたのだろうか。作者は呼びかけている、「愛を愛していたラシェル・フリュイティジェールよ」と。彼女は聖歌が好きだったのだろうと言っている。

 ──主よ、みもとに近づかん…

 姉妹には救いの手が差し伸べられる。いつもふらりと現れ、いつやって来るのか決して予測できない祖父の友人がたまたま両親の元を訪れ、彼が月謝を立て替えてくれるのである。もう姉妹はパパを悲しませないようにと学校に行くふりをする必要はない。やみくもに街を歩いて時間をつぶす必要はない。二人はきちんとくしけずられた髪と白いブラウスを取り戻し、作者は「福音にかなう徳の香りに満ちた小さな魂」を讃える──それはラシェルのことだ。「母の聖書と聖歌集をめくりながら、私はしばしばあなたがたのことを考えた」──それは母とラシェルのことだ。彼女たちの人生は幸福でありながら哀しみが底を流れている。作者はもう一度、これが最も美しい歌であると言って聖歌を引用して物語を終える。

 ──主よ、ともに宿りませ。

 何と美しい掌編だろう、読み終えた僕は思わずそうつぶやいたのだった。



2021年5月9日日曜日

ムージル「愛の完成」「静かなヴェローニカの誘惑」

ローベルト・ムージルRobert Musilの「愛の完成」Die Vollendung der Liebeと「静かなヴェローニカの誘惑」Die Versuchung der stillen Veronikaを翻訳しました。ご自由にお読みください。「田中一郎訳」を表示してくだされば二次利用は自由です。非営利での利用をお願いします。

すでに両作品には古井由吉さんの翻訳があり、今回の翻訳にあたって参考にしました。

『愛の完成』(テキストデータ)クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

『愛の完成』(pdfファイル)クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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2021年3月27日土曜日

ローベルト・ヴァルザー『雪が降る』

ローベルト・ヴァルザーの『雪が降る』を翻訳しました。興味がおありでしたらお読みください。 
テキストデータですので好きなデータ形式に変換してください。振り仮名は青空文庫のルビの形式を使っています。 
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