2022年8月13日土曜日

ムージル「愛の完成」感想

(改訂しました。2023年10月29日)

目次

1.初めに

2.クラウディーネの不感症的傾向

3.自分が今の世界にいるのは偶然である

4.自分は他の世界に順応できる

5.隠されたもの、言葉で表現できないもの

6.参事官の姿の抽象性

7.参事官への欲望

8.最後の場面での会話

参考文献


1.初めに

ローベルト・ムージルの小説「愛の完成」に関して、たまたま読んだ二つの論文がともに最後の場面について思いがけない解釈をしていた。

最終的にクラウディーネと参事官の間に何が起きたのか、ムージルの記述は抽象的であいまいなためはっきりしないのだが、それにしてもMenck氏の「性行為が書かれる直前で小説は終わった」という解釈は予想外だった。

DeSocio氏の方もやはりムージルが詳細な情報を伝えていないと言い、小説の主題はクラウディーネと参事官の問題ではなく、クラウディーネと夫の問題なのだ、と結論付けている。

私はこの小説を最後まで読んで、てっきり性行為は行われたと思っていたから、先の二人の見解には意表を付かれた。

それで私はこの小説をどのように解釈していたのか、あらためて考えてみた。論文とは似てもつかない感想文のような形だけれど、書くことにしよう。


2.クラウディーネの不感症的傾向

拙訳ではクラウディーネの不感症的傾向が強調されていたことを断っておかなくてはならない。そして原文はそこまであからさまに書かれているわけではないということも。


…und deine Zärtlichkeiten fanden mich nicht mehr, und ich traute mich nicht, dich zu bitten, daß du mich lassen solltest, denn in Wirklichkeit war es ja nichts,…


古井由吉さんは「あなたの優しさはあのときあたしを見つけられなかった」「あたしと別れて」と訳しており、早坂七緒さんは「あなたの愛撫にはもはや私は応えられなかった」「私をそっとしといて」と訳している。

拙訳では「あなたから愛されても私はもう何も感じなかった」「放っておいてほしい」となっている。


Etwas Lockeres, Bewegliches und dunkel Empfindsames an einer Stelle ihres Verhältnisses, wo in der Liebe anderer Menschen nur knöchern und seelenlos das feste Traggerüst liegt.


古井由吉さんは「他者同士の愛にもとづいて、」「彼女の関係のどこか一箇所で、何かがゆるみ、浮動し、ぼんやりとものに感じやすくなっていた」、早坂七緒さんは「ほかの人々の愛にあっては、ただ骨組みだけで生気のない、頑丈な柱梁構造があるところで、彼女の関係のその箇所には何かしらほどけて、しなやかで、仄暗く感じやすいものがあった」だった。

拙訳では「他の人間にとっては愛の場面で意識もしないような固くしっかりした基礎の部分に、彼女の場合は不確かなもの、何かゆるんだもの、暗く閉ざされた感覚があるのだった。」


Sie spürte sein Gefühl von sich, das, näher als alles andere, um sie geschlossen war, mit einemmal wie eine unentrinnbare Treulosigkeit, die sie von dem Geliebten trennte, und…


古井訳「ほかの何よりも親しく彼女をつつみこむこの肉体の自己感覚を、彼女はいきなりひとつの脱れられぬ不実、愛する人から彼女を隔てる不実と感じた。」

拙訳「彼女の感覚自体は誰よりも近いはずの彼女に対して閉ざされており、不意にそのことが夫と自分を隔てる紛れもない不実であるように感じられた。」


in dem sie alles sah, was sie tat, diesen stärksten, aus ihr herausgerissenen Ausdruck der Überwältigung, diese größe vermeintliche Heraufgeholtheit und Hingegebenheit ihrer Seele,… 


古井訳「…彼女は自分のおこないのすべてを見た。このいかにも烈しい、内から力ずくでつかみだされた、情熱の圧倒の表現を。この途方もない、しかし間違いの、魂の高揚と自己放棄とを。」

拙訳「その中に彼女は自分自身の行動のすべてを、この上ない鮮明さで見るのだった。これまで彼女から奪われていた姿、快楽に翻弄される姿を、およそ彼女の心が誤って取り除き、放棄していた姿を──。」

  

このように原文を併記すると訳文の水準が分かってしまうから恥ずかしい。けれどもこの小説が性的快感から遠ざかっていた女性が最後にそれに出会う話という側面を持っていること、少なくとも拙訳はそのように訳していることは断っておくべきだろう。


3.自分が今の世界にいるのは偶然である

小説の冒頭(第一部)でクラウディーネと夫との関係が語られている。クラウディーネは夫への愛を思い描き、二人が互いにぴったりと合わさって一つとなっている(プラトンの二体一身の人間像を思い出させるような)イメージを描く。

だが小説が第二部に入ると、夫との関係に何やら影のようなものが差し始める。

クラウディーネは娘のリリーが通う寄宿学校へ向けて旅立つ。それと同時に彼女の過去が書かれる。リリーは彼女の最初の結婚のときの子であり、本当の父親は彼女がたまたま訪れた歯医者であったこと、過去の彼女はまるで浮気女のように次々男と交渉を持ったこと。

彼女はそうした過去の人生を振り返り、現在の夫との生活は単なる偶然の産物なのではないかと考えるようになる。


クラウディーネは幸福の中にあってもしばしば、これはたまたま現実となっただけであり、ほとんど偶然の産物なのだという意識に襲われることがあった。彼女はときおり、もしも今とは全く違う形の自分にふさわしい人生があるのだとしたら、と考えたりもした。


内心ではこれは単なる偶然の産物なのだ、偶然と事実という取り替え可能な覆いだけが私を彼らから隔てているのだ、という奇妙で悲しい喜びを感じていた。


そしてそのとき初めて自分の愛について、ある考えが彼女の頭に浮かんだ。それは偶然なのだ。何かの偶然によって現実となったものを、私は手放さないでいるということなのだ。


4.自分は他の世界に順応できる

クラウディーネはさらに、自分は他の男と関係を持つことも可能なのではないか、と考え始める。

そして、訪問した寄宿学校の教師たちや、過去に散歩時に見かけた男たちについて、彼らの世界の内側に閉じ込められた自分を想像する。


そして彼女は突然、彼女もまた──こうした物たちすべてと同じように──自分自身に閉じ込められ、一つの場所につながれ生きているのだと思った。私は長い年月に渡ってある決まった町の中、あるいは家の中、一つの住まい、一つの感情という、ごく狭い場所にいるのだ、と。


それはまるで、住宅の間を歩き不快感を感じていたのが、しだいにすっかり穏やかな気持ちになり、人はここで幸福になれるのかもしれないと想像し始め、そして突然自分がその当人になる瞬間が訪れたかのようだった。


私たちは、私たちのような人間は、もしかするとこんな人間たちとも一緒に暮らせるのかもしれない。


もしも私がこの男たちの一人の生活圏内に閉じ込められたとしたら、そのときなるであろう人間に私は実際になり得るのだろう。


こういった人々の中には、私にはふさわしくない、私とは他人だと思うような男が暮らしている。けれどももし私がその男にふさわしい女になっていたなら、今日そうであるような自分については何も知らなかったかもしれない。


5.隠されたもの、言葉で表現できないもの

さらにクラウディーネは自分の愛について(欲望について)、それが言葉では語れない、とらえられないものだという印象を持つようになる。

そこにフロイトの言う抑圧されたもの、意識化されることのない衝動に近いものを見出すことができるかもしれない。

あるいは、ラカンの言う「現実界」、言語の外側にある領域に近いものかもしれない。

拙訳では、ここでクラウディーネの不感症的傾向が顔を覗かせる。彼女は自分の感覚が自分へと届かないこと、自分の肉体が自分の理解の外にあることを意識するのである。


彼女はその瞬間、彼女の体はそれ自体が感じたものをまるで故郷のようにぼんやりとした障壁として覆っている気がした。彼女の感覚自体は誰よりも近いはずの彼女に対して閉ざされており、不意にそのことが夫と自分を隔てる紛れもない不実であるように感じられた。そして彼女の体が守っていた最後の貞節は、なすすべもない未知の経験が降りかかるうち、彼女の内側の不気味な最奥部でそれと反対のものへと転じたように思われるのだった。


意志の決定にことごとく逆らう謎めいた肉体の感覚に対して、彼女の内にある暗黒や虚無を覗くような戦慄を覚えるうちに、彼女は自分の体を突き放したい欲求に駆られるのだった。


6.参事官の姿の抽象性

クラウディーネは娘が通う寄宿学校がある土地に向かうのだが、列車の中で見知らぬ男と知り合いになる。

彼(以降、彼は「参事官」と呼ばれる)が何者なのかは物語が先に進んでもはっきりしない。彼は抽象的な存在にとどまり、クラウディーネの彼に対する印象は断片的にほのめかされるのみである。

やがてクラウディーネの中で徐々に彼に対する興味が高まってゆく。それまで夫への愛を語っていたのに、それからの彼女の行動は参事官から決して離れることなく、彼を中心に回り始める。まるで新しい恋人を見つけたかのように。


そしてそのとき不意に参事官の姿が頭に浮かび、すると彼女は刺激を感じた。男が自分に対して欲望を抱いていることを彼女は知っていた。さらにここで可能性との戯れでしかないことが、彼の元では実現することも。


彼女は参事官が今どこかで自分のことを待っている気がした。すでに周りの狭い視界に彼の息が満ち、近くの空気に彼の匂いがするのだった。彼女は落ち着きがなくなり帰り仕度を始めた。彼に会いに行こうとしている自分に気付き、それがどのような結果をもたらすかを考えると、たちまちその想像は彼女の体を冷たくとらえてしまった。


前に座った参事官は、彼女の体に秘かに隠された恋人像が自分に近づいたことを感じ取ったに違いない。そして彼女はすでに、彼が眠気を誘うような一本調子で話している間、おぞましい音を立てて餌を食む山羊のように絶え間なく上下に動き、消え入りそうな言葉を反芻する彼の髭の動きから目を離すことができないのだった。


7.参事官への欲望

小説はクライマックスに近づき、参事官を求めるクラウディーネの行動はますます大胆になるが、文章は抽象的なままなので読者はクラウディーネの内面を想像するしかない。

ホテルの部屋の中で、扉の向こうに立つ参事官の姿を想像しながら裸で床に四つん這いになる彼女の行動は激しい。

だがそれは客観的で冷たい描写であるともいえ、内面の情欲は書かれていないがゆえに読者の想像をかき立てるともいえる。それはまた、それまでかすかに、徐々にほのめかされていた参事官への欲望がついに表に現れたという印象にもつながるだろう。

確かに小説の記述は最後まで抽象的であいまいな記載にとどまっている。だが、その彼女の描写の変化をたどるなら、最終場面では彼女が性行為によって失われていた快感を得たことが書かれているのではないだろうか。


そのとき彼女はこの絨毯の上に身を投げ出し、犬のように鼻を鳴らしながらその不快な足跡に口をつけて興奮したいという欲求に襲われた。


彼女の体が男の体の下に横たわる姿を、小川の流れのようにあらゆる細部まではっきりと思い描いた。青ざめた自分の顔を、身を任せるときの恥ずかしい言葉を、彼女の上に覆いかぶさり、彼女を押さえ付けている男の猛禽類の翼のように逆立つ目を感じた。


彼女は自分自身の行動のすべてを、この上ない鮮明さで見るのだった。これまで彼女から奪われていた姿、快楽に翻弄される姿を、およそ彼女の心が誤って取り除き、放棄していた姿を──。


するとそのとき、彼女はぞっとするような感覚に体を震わせ、快感があらゆる障壁を乗り越えて彼女の肉体を満たしたことを感じるのだった。


8.最後の場面での会話

最後の場面ではクラウディーネの内面はほとんど描写されることなく、彼女の発言のみが書かれている。

それを読むと、彼女が参事官に夢中になっている、彼のことを愛してしまったと読めるのだが、これは誤解なのだろうか。

 

Nicht wahr, du liebst mich? Ich bin zwar kein Künstler oder Philosoph aber ein ganzer Mensch, ich glaube, ein ganzer Mensch. 


君は僕のことが好きなんだね。僕は確かに芸術家でも哲学者でもないが、立派な(ガンツァー)人間だと思うよ。


ここは訳し方が難しい箇所であり、古井由吉さんは「全的な人間」「まったき人間」と訳していた。

拙訳では参事官は「立派な人間」と言い、クラウディーネは「全体としての人間」と言っているとして、二人の解釈が異なっている風に訳した。クラウディーネは自分では参事官を部分的に好きになったことを認めるが、全体として好きだとは認めない。


Nicht so, ich meine, wie sonderbar, daß man einen gern hat, eben weil man ihn gern hat, seine Augen, seine Zunge, nicht die Worte, sondern den Klang…


「そんなことはないと思います。あの人の目が好き、あの人の話が好き、言葉ではなくて声の響きが好き、だからあの人のことが好き、というのはおかしいわ。」


一般論を話しているようで、参事官に向けてあなたの目が好き、あなたの声の響きが好き、と言っているように読める。


Nein, ich liebe, daß ich bei Ihnen bin, die Tatsache, den Zufall, daß ich bei Ihnen bin.


「そうではなくて、参事官さんのそばにいることが好き、参事官さんのそばにいるこの現実が、偶然が好きなんです。」


表面上は抵抗しているのに内面では完全に相手に屈服している、言葉では「好きではない」と言いながら内心では好きになってしまった状況に淫靡な雰囲気を感じる読者がいてもよいと思うが、どうだろう。参事官の言う通り「君は考え違いをしている。君は僕を好きになったんだ。まだそれを認められずにいるだけだ。それはまさしく本当の愛情である証しだよ。」と思う。


 Und noch einmal sprach sie: «Bitte, gehen Sie weg», sprach sie, «mir ekelt.»

  Aber er lächelte nur. Da sagte sie: «Bitte, geh weg.»


そして彼女はもう一度言った。

「お願い、離れてください……」彼女は言った。「……嫌だわ……」

けれども彼は微笑んでいるだけだった。それで彼女は言った。

「あなた、お願い。離れて。」


最後の最後にクラウディーネによる参事官の呼び方が敬称 Sie から親称 du へと変わるところも淫靡な雰囲気がある(この文はたまたま命令形なので du は出てこないけれど)。古井由吉さんは「参事官さん」という呼び方から「あなた」へ変わることでそれを表現していた(拙訳も同じやり方を踏襲しました)。

拙訳では原文にない「……」が出てきている。実は私が初めて見た原文の書籍では «Bitte, gehen Sie weg» にはピリオドもコンマもなかった。そのため「……」を使ったのだが、お読みになっている皆様は「それはおかしいのではないか」と言われるかもしれない。

 

真面目にこの作品をとらえている方々と比べて私の場合は自分勝手な解釈が入っているようだ。自分の翻訳によって作者の真意を代弁しているなどと大それたことを言うつもりもまったくない。作品のあまりにも抽象的な文章に対して(このような解釈も可能になってしまいますが)と恐る恐る言うことができるだけである。



参考文献

Anna-Lisa Menck, „heimlich, weit draußen, irgendwo…“ – zur Konzeption von Räumen und Grenzen in Robert Musils „Die Vollendung der Liebe“ (2012)

Domenic DeSocio, The Times of Their Lives: Queer and Female Modernism, 1910-1934 (2021)

早坂七緒、Kaiser/Wilkinsの英訳版からみた„Die Vollendung der Liebe“、ドイツ文化 (通号47) (1992) p25-48

ムージル作、古井由吉訳、愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑、岩波文庫(1987)