菊川Strangerで「アポロニア、アポロニア」を観た。
前回観た映画は「春原さんのうた」だった。日常のような景色を新鮮な気分で集中して観ることができ、聴こえる音に耳をすますことができた貴重な体験だった。そのためもあってか、このカフェが併設された席数49のこじんまりした映画館に対してどこか親しみのようなものを感じている。期待して映画を観た。
このドキュメンタリー映画でレア・グロブ監督はアポロニアがまだ美術大学の学生だった頃から13年間に渡って彼女を撮り続けた。
アポロニアの人生は波乱万丈だった。彼女の家族が暮す家は劇場であり多くの芸術家たちのたまり場だった。両親は彼女が生まれる前から(!)アポロニアの姿を映像に収めており、その映像は映画の中でも一部使われている。彼女が子供の頃に両親は離婚し、母親とともに劇場を追い出された彼女は生命が危ぶまれるほどの重病を体験している。後に彼女は生家である劇場に戻るのだが、そこは女性権利団体FEMENの拠点となり、アポロニアは代表のオクサナと親しくなる。その影響があったのかなかったのか、後に劇場は放火され、さらに彼女は傷害事件に巻き込まれそうになった。
そんなことがありながら彼女は職業として画家を選んだ。選んだからにはどれほど人生が困難に満ちていたとしても絵を描かなくてはならない。美術大学を卒業するまでは絵のことだけを考えていられたが、プロとして生計を立てるには絵を売るために人脈を作り、絵を描くことのできる環境を作らなくてはならない。芸術は人生とは別にあるものではないのだから。
初めて個展を開いたとき、彼女は「絵に十分な時間をかけられなかった」と言い、評論家は「描かれた人物が死者のように見える」「対象に対する愛が感じられない」と言った。彼女は自分が絵を売るために魂を他人に売り渡したのではないかと思って泣き崩れるが、「○○がない」と分かるということは、それが大切なものだと分かったことの裏返しだ。
彼女は確かに周囲の状況に追われるように絵を描いたが、自分にとって大切なもの、自分の愛の対象を見失ってはいなかった。当初はモデルを使って絵を描いていたが、後年になって描く対象は人生において彼女が関わった女性像へと変わった。その中には後に自殺したオクサナが描かれた絵がある。批判された当時の彼女の絵のタッチと、称賛されるようになってからの彼女の絵のタッチがそれほど大きく変化しているとは思えない。対象を見つめる眼が深化したということなのだろう。
レア・グロブ監督の撮影は通常のドキュメンタリーではない。アポロニアに対するカメラの接近度合いは恋人、家族の視点に近い。ある場面で男のカメラマンが、宣伝写真なのだろうか、彼女を撮っていた。数十メートルはあろうかというアナルプラグの形の立体作品の前でアポロニアは「裸になりたい」と言った。男のカメラマンはやんわりと拒否する。その様子を映画のカメラはとらえている。アポロニアはレアに向けて撮ってくれと言い、レアはそれに従って裸の彼女を映像に収める。信頼の度合いが男のカメラマンとレア・グロブとでは異なっているのである。
監督は客観的な無色透明の立場で彼女にカメラを向けることをしなかった。単にアポロニアを撮るだけでなく、彼女の人生に関わり、自分自身も途中で病に倒れながら何とか復帰して映像を撮り続けた。あれほどの困難を乗り越えてなお映画を完成させるのは愛情でなくて何だろう。この映画は芸術家の成功が描かれ、男性に依存しない自立した女性像を提示しており、それは現代社会に受け入れられそうな題材である。だがこの映画の本当の要は、撮影者が被写体に対して愛情を持っていたことにあると私は思っている。
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