トーマス・マン「トニオ・クレエゲル」岩波文庫の実吉捷郎訳はマンの作品で初めて読んだ作品だったと思う。
当時感動したことを覚えているが、今この作品を読むと、感動とは少し異なった、脱力感にも似た感情が湧きあがるのを押えられない。
この作品のクライマックス、主人公トニオがハンスやインゲと「再会」する場面は、本当に微妙な筆使いで記述されていて、本当は会っていないのに会ったように書かれているものだから、普通のドイツ人読者の中にさえ「トニオはハンスやインゲと本当に再会した」と考えている人もいるらしい。
でも僕は、「トニオはハンスやインゲと実際には再会していない」と書きたくない気がする。
僕が感動したのは、筆の力だけで不可能を可能にし、ハンスやインゲとの再会を現出させることができることにあったわけで、そこに奇跡を求める祈りにも似た感情を見いだしていたとも言えるかもしれない。
もちろん実際には、マンという作家はそんな夢の世界を愛するような感傷性を持ち合わせていない。それは彼の他の作品や、彼の人生をたどれば分かることだ。微妙な筆致を使うことで目指したのは、ひょっとすると「誤読した読者の読解力の無さを嘲笑する」ぐらいのことだったのかもしれない。
僕が当時感じていた感動が、まったくの的外れだったのかもしれない、というような思いが、今感じる無力感に通じているのだろう。なぜドイツ人のノーベル賞作家であるマンの頭にこのアイデアが生まれたのか、むしろ日本の感傷的なマイナー作家にこそふさわしいアイデアなのではなかったのか、と思う。
この作品を考えるとき、僕は心の中で「再会の奇跡」を讃えるつもりだ。それが作品の真の姿ではないことを認めつつ、あくまでも心の中でこっそりと。
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