2016年10月10日月曜日

小川信治展

千葉市美術館での小川信治展に行きました。
対称性を強調する鉛筆画作品たちがありました。それはアントワープ、ジュネーブ、ストラスブールなど、ヨーロッパの都市たちの、対称性を重んじて設計された町並みをさらに左右対称にしたものでありました。
また「モアレの風景」は塔などの建物や道を寄せ集め、全体としてモンサンミッシェルのような風景を作り上げていました。

映像作品である「干渉世界」では、写真の中の一部の人物や背景が、まるでPhotoshopのレイヤーを移動するがごとく、連れ立ってするすると別の場所に移動していました。
それまで家族のように一つの場所にあった男女や子供は別々に別れ、元々それらは別の写真の中にあった無関係な人間たちであったことが示されていました。また、あるときは背景自体がするすると上下にレイヤー移動し、新たな背景がその背後に現れていました。
人間同士の関係にせよ、人間と背景の関係にせよ、それらを新たに組み換え、また結合し、新しい関係を作ろうとする試みであると感じました。

レオナルド、フェルメールなどの古典絵画から人物を切り取る作品もありました。また、前景の人物像が左右に分かれて画面隅に追いやられ、隠されていた後景が姿を現す作品もありました。それまでの作品から人物がいなくなった世界、すなわちもう一つの並行宇宙に存在する世界を描いたとのことです。
いずれの作品においても、自由自在に戯れる作品の裏側には確かな描写が存在し、作品を作り上げる忍耐が存在しているのでした。

岡崎和郎展

千葉市美術館での岡崎和郎展に行きました。岡崎作品のみならず、インスピレーションの源となった人達の作品も隣に並んでいます。それがまた大変な人数であり分野も多岐にわたっています。
ダリ、デュシャンやコーネル、瀧口修造など、通常芸術家に分類される人達だけではありません。チャーチル、ケージ、井伏鱒二、ウィリアム・テルなど、およそ他分野と思われる人たちも岡崎作品に影響を与えています。
また、影響といっても一筋縄にはいきません。モンドリアンの作品の隣にある「P.M.ボール」はモンドリアンの作品を球形状すなわち3次元化したもので、これは誰が見ても影響があることはあきらかです。
しかし、例えばブランクーシの具象彫刻「眠る幼児」の隣に岡崎の「石の夢」「石の器」が並んでいるのですが、両者は似ているとはいえません。
ケージの「4’33」の映像や楽譜の隣にある「hear something…」は耳に当てることを意図したオブジェであって、似ているという問題ではなく、ケージが岡崎のインスピレーションの源となったということです。

この展覧会で、岡崎作品は、独立した芸術作品であって完全に他人から独立した状態と、他作品と並列し関連性を強調することによってその存在意義を確立する状態と、二者の間で揺れる微妙な存在となっていました。
それはまた、すべての芸術は他からの影響を受けており完全なオリジナル作品はありえないという主張を掲げることによって、逆に元となった作品たちの持つオリジナル性の強さを感じることにもつながるという、背反した微妙な印象を与えることにもなるのでした。

2016年8月10日水曜日

DVD「ふたりのベロニカ」

DVDで「ふたりのベロニカ」を観ました。
恥ずかしいですが拙い感想を書きます。

フランスのベロニカに何者かから小包が送られてきて、
後でそれはアレクサンドルからだったと明かされる。
でも彼は(ベロニカの学校を訪れていたけれど)
彼女に一目惚れしたということではなく、
女性心理を分析して本の題材としたかったのだということですね。
ベロニカの方がアレクサンドルに一目惚れしていたのは、
単なる偶然の一致だったと。
それがなかなか理解できませんでした。

つまり、小包の件はポーランドのベロニカとは関係がないのだと。
確かに小包の中には紐が入っているものがあった。
そしてポーランドのベロニカは楽譜を入れるファイルの止め紐を
引きちぎっていた。でもそれとフランスのベロニカに送られた
紐とは関係がないのだと。
(ベロニカの友人が「ヒモの件も彼の本にあった」と言っていたので、
ヒモもアレクサンドルの本に載っている何かということでしょう。)
それもなかなか理解できませんでした。
物語の中の必然と、物語の中の偶然(ただし観客がそれを偶然と思わない
のは構わない)の区別は難しかったです。

以前はこの作品のラスト、二人の恋人(ベロニカとアレクサンドル)の
ハッピーエンドを疑わなかったのですが、今はそう思わなくなりました。
アレクサンドルが行っているのはベロニカの分析であり、
いくらベロニカの霊感を分析しても、それは愛にはならないのだ、
と思うようになりました。

2016年7月1日金曜日

ムージル「愛の完成」の翻訳(全文テキストファイル)

ローベルト・ムージル作「愛の完成」は古井由吉さんの翻訳がすでにありますが、読んでいるうちに自分でも訳してみたくなり、勝手に翻訳してしまいました。(ムージル自身は1942年に亡くなっているので、すでに原作の著作権は切れていると考えて翻訳しています。)
私自身は翻訳家でもなくドイツ語にも詳しくないので、古井由吉さんの翻訳とはまったく次元の異なるものです。あらかじめご了承下さい。

愛の完成(テキストファイル)
(改訳したため削除しました。)

2016年5月8日日曜日

ムージル「愛の完成」

ローベルト・ムージル作「愛の完成」の翻訳を改訂しました。
(再度改訂したため以前の版を削除しました。2016年6月30日)
https://drive.google.com/open?id=0BzXzm4RRz7w1OG1jQkR6Y0lzWDg

2016年2月12日金曜日

東京都美術館「ボッティチェリ展」

東京都美術館「ボッティチェリ展」に行きました。
ボッティチェリとリッピ父子が主役ですが、個人的にはボッティチェリに注目しました。
テンペラ画、フレスコ画、版画が展示されていましたが、ダンテ「神曲」に基づく版画は来ていません。
「バラ園の聖母」では、聖母の頬の紅みや足元の大理石の模様の緻密さが印象に残りました。
「書斎の聖アウグスティヌス」はフレスコ画ですが、画面全体の白く輝くような雰囲気と異常なまでの顔のリアルな描写が印象に残りました。そして画面隅に描かれた天球儀は思ったより平面的な描写なのでした。
「書物の聖母」では、青色の発色が鮮やかすぎるほど鮮やかで、ルネサンス期の絵画を見ているような感じがしませんでした。
ボッティチェリ晩年の作品も何点か来ていました。「ホロフェルネスの頭部を持つユディト」「オリーブ園の祈り」「アペレスの誹謗」などです。かつてのボッティチェリはリアルな描写が甘美な雰囲気を生んでいたのですが、晩年に近づくにつれ苦痛を感じさせる深刻さが加わってくるのでした。「アペレス」の柱の彫刻の描写は見物です。