2022年4月4日月曜日

トカルチュク「優しい語り手」

 オルガ・トカルチュク「優しい語り手」(小椋彩訳)を読んだ。
 冒頭の母親とのエピソードからすでに引きつけられる。
 母親はトカルチュクに「(あなたが生まれる前から)あなたを恋しがっていた」と言い、「だれかを恋しく思うなら、そのだれかは、もういる」と言った。
 その言葉は「わたし」という存在を通常の物質性を超えたところへ連れ出してくれた、時間の外、永遠のそばに置いてくれた、とトカルチュクは言う。
 存在の第一段階は想像されることであり、「わたし」という存在にも、「私」という一人称の語り手にも、物質性を超えた普遍的なものが含まれるのである。

 トカルチュクが現在の文学を取り巻く状況を見る目は厳しい。
 インターネットが普及しながら人間同士は団結でなく分断へと向かい、誰もが物語を書いていながらどの作品も似かよっており、真実が覆い隠されるか、さもなければフィクションが虚構と混同される世の中であると彼女は言う。
 しかし、彼女は未来に希望を失ってはいない。
 フィクションは読者の中で人生の経験へと変わることによって、ある意味で真実であることを彼女は宣言していた。それには言葉で表現されたものを多面的に(具体的、歴史的、象徴的、神話的に)とらえる知的能力が必要であると。
 そして彼女は物語の語り手として、「四人称」と呼ぶべきもの、自らのうちに登場人物それぞれの視点を含み、さらに各人物の視野を踏み越えることのできる、そんな語り手を想像している。
 そして物語には、人格を与える技術、共感する技術、すなわち優しさが助けになると言っている。優しさこそが、わたしたちの間の同一性、つながりに気づかせてくれるものなのだから。

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