2020年11月6日金曜日

福永武彦「廃市」

 福永武彦「廃市」を読んだ。


 初めの方に「それはもう十年の昔になる」と書かれている。語り手はその町が火事で焼けたことを知り、昔の記憶を呼び起こしているのだ。当時学生だった語り手は、卒業論文を書くための場所を求めて田舎の旧家に滞在することになった。世話になった貝原家はおばあさんと孫娘の安子と使用人がいるだけの寂しい家だった。安子の姉夫婦がいるらしいのだが、姿は見えない。家のすぐそばには大河が流れ、さらに掘割が縦横に巡っていて、住人は小舟で行き来している。古びた趣のある町だった。

 語り手の身の回りの世話をするのは安子で、快活な彼女に語り手は好意を抱く。親しくなった二人は小舟で夕涼みなどするのだが、町の美しさを褒める語り手に対して、安子は「こんな死んだ町、大嫌い」と言う。さらに自分のことを「小さな町に縛られて、何処へ行く気力もない」と表現するのだった。

 やがて語り手は姉夫婦がともに家を出て、それぞれ別の場所で暮らしていることを知る。

 姉の夫、直之には安子の母親の法要で会った。直之もまた「この町は死んでいる」と言う。さらに「人工的な掘割の中で人々は行事や遊芸にばかり熱心で、退廃している」と言った。姉の郁代には安子とともに訪れた菩提寺で会った。郁代は寺に身を寄せていた。安子よりも細面、悲劇的な美しさ、しとやかと形容されている。

 安子と姉夫婦の三人は互いの関係に大きな問題を抱えていた。

 直之は「私は郁代のことを愛しているがあれはそうは思っていない。私が別の女を愛していると信じている。そうでないといくら言っても聞く耳を持たない」と言う。郁代は「直之の好きな人は安子であることに私は気付かなかった。罪深いことをしたと思った私は寺に引きこもり、直之と安子の二人が幸福になることを願った」と言う。安子にしても「二人でうまくおやりと言われてもそんなことはできない。私も直之さんが好きだったが、直之さんが好きなのは姉さんの方であり、二人が結婚してくれてむしろうれしかった」と言う。

 三人は自分の信念に従って人生を歩むが、その先には孤独しかない。どんなに話し合ったところで相手の心情は計ることができず、第三者を介してもその気持ちを察することができない。危うい均衡を保っていた三人の関係だが、それも直之の死によって終わりを迎える。

 やがて季節は過ぎ、語り手は町を去ることになった。安子との別れ際になって、語り手は「直之さんが本当に愛していたのは、安子さんではなかったか」と考える。「安子さんはそのことに気付かなかった」と。そして汽車が町を去る最後の瞬間になって、「僕もまた、今になって安子さんを愛していたことに気付いた」と考える。だが、「もう一度この夏を初めからやり直すことはできない」。

 最後の場面になっても、語り手は十年後の現在から過去を振り返ることをしない。現在の自分は、その後の彼女たちがどうなったか、自分がどのような人生を歩んだか知っているはずだが、それは表に現れることはない。ただ、遠くに過ぎ去る町を眺めながら、未来に不安を抱えたまま汽車に揺られるだけなのである。


 映画を観る前に原作を読んだのだが、どこかで映画の中の俳優たちの姿を想像しながら読んでいた。この作品における安子も、郁代も、直之も、語り手の目を通してしか存在しない。だから、もしも映画の中で俳優たちがそれぞれの役を一人の人間として演じきるならば、原作よりもいっそう確かな手応えをもって登場人物を感じることができ、世界の広がりを感じることができるだろう。そう思ったのだった。

 だが映画を観終わってからなら、原作の良さを感じることができる。それは小説ならば、古びた町の静かなたたずまいが登場人物の孤独と一致した世界として読者の元に届くことができるということである。また、安子や郁代や直之という人間も、それぞれ快活な娘として、陰のある美人として、退廃と悔恨に満ちた男として、語り手の心情に一致した人間として存在できるということである。


 町は火事によって失われ、静かな町並も小舟が行き交う掘割もにぎやかな祭りの景色も消えてしまい、孤独な人間たちの心模様は霧がかかったように見えなくなってしまった。ただ読者の記憶の中だけにその姿は残り続けるのだった。

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