2026年9月23日水曜日

さびしんぼうについて

 映画「さびしんぼう」について語るのは難しい。
 それは映画の中で描かれていることと私が受け取ったこととが違っているためである。映画に何が描かれているかをいくら説明しても、私が何を受け取ったかは少しも明らかにならない。
 その原因の一つにさびしんぼうというキャラクターの存在がある。
 原作では主人公の前に現れる少女は素性がはっきりしている。子供時代の母親である。子供時代の写真の中の母親が人間の姿を取って動いたりしゃべったりしているのである。
 しかし映画ではさびしんぼうの人格は子供時代の母親に限定されているわけではない。
 さびしんぼうはヒロキに対して初対面から馴れ馴れしい。親しい友人のような、幼馴染のような、家族のような話し方をする。
 設定としては昔の母親なのだが、ときに母親に対して意見する独立した存在でもある。
 母親についてヒロキに「本当はあんな人じゃないんだけどね。」と言うさびしんぼうは、まるで現代に生きる人間として母親のこれまでの人生をずっと見てきたかのようだ。
 さびしんぼうは彼女自身の恋をヒロキに向けて語ることもある。勉強ができてピアノを上手に弾く少年への恋心。それは少女である彼女にとって現在に属する恋のはずなのに、遠い過去の恋を振り返っているようにも見える。
 この映画はヒロキのナレーションで始まり、ヒロキのナレーションで締めくくられるが、最後に彼はすでに大人であること、その彼が高校生時代を振り返っていたことが明かされる。映画は常に過去を振り返る視点で描かれていたのである。

 映画に出てくる大人たちは極端に戯画化されている。あまりにも馬鹿っぽく描かれ過ぎだと思えるくらいに。ヒロキはさびしんぼうとの不思議な世界を経験するが、彼の周りには大人たちの通常の世界がある。二つの世界は相容れないものであるが、大人たちは大人たちで非現実的な戯画化された世界に住んでいて、決してさびしんぼうの世界を壊そうとしていない。
 映画にはさびしんぼうの他に橘百合子という少女が登場するが、彼女は原作には存在しない。
 映画の中で百合子の人間性はほとんど描かれていない。ヒロキは百合子に一方的に片思いし、やがて彼女と出会い、そして別れるのだが、その交流はごく淡いものであり、相手のことを何も知らないまま別れたに等しいものである。
 この映画に一貫してさびしげな雰囲気が流れている──正確に言うと前半は悪ふざけと言えるほどにドタバタ描写をし、後半に真剣な雰囲気になる──のは、百合子との別れがあるからだろうか。どうもそうは思えない。彼女はヒロキの思い人でありながら、その存在はあくまでも概念としての存在にとどまっている。

 さびしんぼうとの別れは橘百合子の別れよりもはるかに重大なものとして哀切に描かれる。
 さびしんぼうは映画の中だけに存在する、映画の文法に則った存在である。彼女はシーンが変わることによって現れ、また消える。
 例えばさびしんぼうがヒロキの部屋にいて母親が来る物音がしたとき、彼女はでんぐり返しをしてカメラの画角から外れる。するとシーンが切り替わり、次のシーンで彼女は消えている。あるいはさびしんぼうが部屋のカーテンを体に巻き付けるような動きをした次の瞬間、シーンが変わって次のシーンで彼女はいなくなる。
 さびしんぼうの声は独特な声質をしている。おしとやかというよりはちょっとうるさい、押し付けがましい発声をするのだが、一つの音域の声が聞こえるだけでなく、もう一つ別の音域の声が聞こえるように感じられるのである。
 さびしんぼうと橘百合子は同じ俳優が演じているが、俳優は二人が別人格であることを意識して発声しているから二人の声は違う。百合子の声にはさびしんぼうのような二つの音域を感じない。彼女は静かで礼儀正しい発声をしており、それは最初から最後まで変わらない。
 独特な不思議な声をするのはさびしんぼうの方だ。明るく振る舞っているその裏側に悲しげな声が聞こえるような気がするのである。それはさびしんぼうの姿の裏に百合子の存在を見るよう誘っているともいえる。
 ここで一人二役が生きてくる。見た目がそっくりな二人を演じるための一人二役ではなく、似ていない二人を演じるための二役。珍しい形の一人二役である。
 監督の言葉によると、橘百合子という人物は映画の中でヒロキと母親との物語を構築する上での工夫だった(1)
 監督は原作を映画化するに当たって、いかにして少女の体に母親の心が宿って見えるようにするかを考えた。小説とは違い映画では俳優が肉体を備えているから、二人の俳優はそのままでは同一人物に見えない。それを同一人物として描くためにはどうしたらよいかということで苦心した。
 百合子とはその過程で生み出されたキャラクターだった。 ヒロキにとって片思いの相手である百合子と母親であるさびしんぼうとを同一の俳優が演じる。それによって母親と少年と少女とを三角関係とし、少女時代の母親と少女とを同一視する視点を持つよう観客を誘っているのである。
 子供時代の母親と出会うことで、息子は母親にこれまで自分が知らなかった側面があることを知る。確かに脚本はきちんと原作の精神を伝えようとしていた。
 だが私はそのことを理解できていなかった。
 私が理解していたのは(ある意味で誤解していたのは)、この映画がさびしんぼう、ヒロキ、百合子の三角関係の物語であるということだった。そして同じ俳優が演じている二人の少女は、表面的な違い、環境や境遇の違いはあってもその本質は同じであるということだった。
 つまり私にとっては、さびしんぼうがヒロキの母親であるという設定は単なる口実であり、本当に描きたいことを隠しているとしか思えなかった。本当に描きたかったことは三人の思いがすれ違っていること、そしてその思いが最後に一瞬だけ通じ合う、叶わなかった恋が奇跡のように成就するということなのだと思っていた。
 さびしんぼうは言っていた。私はもうじきいなくなる、写真の私は十六歳の私であり、十七歳の私にはなれない、と。
 彼女の存在の期間が限られていることは原作通りであるが、さびしんぼうの期間が限られていることと、映画にしか登場しない百合子というキャラクターの存在とは、必ずしもつながってはいない。
 さびしんぼうの存在に終わりが近づくと、百合子とヒロキの関係も終わらなければならない。両者のつながりに必然性はあまりないから、むしろさびしんぼうと百合子が重なっているような感じを与えることになる。
 映画で百合子というキャラクターを創造したことは、さびしんぼうと母親とを同一視する視点だけでなく、観客が新たに別の解釈をする道を開いてしまった、と言えるだろう。

 百合子が何者であるかの情報の一部は観客に伝えられる。ヒロキと百合子の別れの場面の直前に彼女は屋台の魚屋に魚を買いに来て、二尾買おうとするが手持ちの金が足りずに一尾だけ買おうとする。魚屋は彼女のことを知っており、「お父さんのお加減はいかがでございますか」と言う。父親は病気なのかもしれない。ヒロキが声をかけると彼女は驚くが、彼と話をして、その中で自分の服が母の形見であると言う。彼女は病気の父親と二人暮らしなのかもしれない。これらの情報は観客には伝わるがヒロキには十分に伝わっていないものとして描かれている。だがおそらく現在の彼は当時の百合子の境遇を理解していることだろう。
 百合子はヒロキと別れた後、振り返ることなくそのまま急ぎ足で去るが、途中でヒロキが渡したプレゼントに付いていたリボンを落とす。有名なシーンだが、監督は「シナリオにも撮影の予定にもなかった」と証言している(2)。つまり、これは演出ではなく、偶然だと。
 けれども私には──気のせいかもしれないが──百合子が脚本や演出とは無関係に自分の意志でリボンを落としているように見える。
 この映画は脚本や演出を超えてどんなことも可能だと言っている気がしてならない。あらゆることは可能であり、あらゆる願いは叶うのだ、と。もちろん願ったそのままの形ですべてが実現するわけではないが、さびしんぼうはどんなことも可能にして見せてくれている。
 百合子に贈るためのプレゼントを用意したヒロキに対して、「(そのプレゼントは)私に?」と問い、ヒロキの「お前じゃないよ、本物のさびしんぼうの方」という答えに「(私も)そんなプレゼント貰ってみたかった」と返す言葉からは、現在のさびしんぼうが現在のヒロキのことを気にかけているように見える。最後の場面では、百合子と別れたばかりのヒロキに対して「どうだった、うまく行った?」とさびしんぼうは声をかけていた。ヒロキを応援するかのような口ぶりだった。
 私にとってこの映画は、女の子が好きな男の子のためを思って一旦は身を引くが、最後に別れを前にして心の内を打ち明ける、という構図に見えた。
 そしてすれ違う三人の想いは、二人の女の子を同じ女優が演じることによって、奇跡のように成就する様が一瞬見えたように思った。
 さびしんぼうは現実から離れた虚構の存在であり、映画の中の演じる存在であり、主人公にとって人生を振り返る視点を示してくれる存在であり、恋を応援する存在であり、最後には恋の対象としての存在である。
 百合子と別れたヒロキが自分の家に帰るために石段の前に差し掛かると、さびしんぼうが座って彼を待っている。尾道の西願寺の前に石段があることは現実であり、そこにさびしんぼうが座っていることは虚構である。だがそれは虚構を超えたもう一つの真実であるとしか思えない。
 この石段の場面はいつ見ても心を揺さぶられる。ここで何かが終わりを迎えるという厳粛な事実を予感するから。さびしんぼうとの別れは彼女の存在が消えるということであり、それはある意味で彼女の死である。死を前にした心情の告白は悲しみの瞬間でもある。
 さびしんぼうが最後に示したのは、彼女は現実の人間ではないのだから、個人を超えた抽象的な恋心だった。相手への恋心というよりは、絶対的な真実としての恋心がある、そのようなものが存在し得ることを伝えたということである。あるいは恋に限定する必要はないのかもしれない。ある絶対的なものはこの世に存在し得る、と表現した方がよいのかもしれない。
 何のことはない、私が受け取ったものとは、作者の意図を理解できない人間の単なる誤解の産物だったのか。
 さまざまな人の思いを引き受ける存在であるさびしんぼうは、そのような私の思いも引き受けてそこに存在していた。映画全体に流れる甘美な雰囲気はそこに理由があったのかもしれない。

 映画の末尾に母親が「男の子は母親に恋しているものだ」と言ったときは少し唖然とした。この映画がそんな話だったはずはない、とさえ思った。だが母親は間違っていない。原作も映画の脚本もそのように書かれていたのだから。けれども私にとってそれは違うという気がしてならなかった。
 違うというのであれば、自分が受け取ったものが何だったのかを自分で考えなければならない。例え難しくとも、少しずつであってもそれを自分なりに表現する必要があるだろう。
 この文章がその一端となり得るものでありますように。


(1)「なんだかへんて子」解説(大林宣彦) p.169
(2)「大林宣彦のa movie book尾道」p.70