2025年9月14日日曜日

小説「理由」と映画「理由」

「理由」宮部みゆき
映画を観てから小説を読んだ。
この小説の独特の文章は映画の語り口と比較するとさらに面白い。
小説は地の文章で読者に状況を説明し、「◯◯はこう言った」に続けて登場人物の会話文が来る。だがその会話文は各人が話した言葉でもあるが、読者に対する説明の役割も担っているのだ。会話文は作者に向けて話した言葉かもしれないし、読者に向けて話しているのかもしれない。その曖昧さが映画では俳優たちのセリフまわしの違いとなって現れる。

岸部一徳はカメラ目線のまま報告書のような、感情を込めない、棒読みに近い話し方をする。おそらく演出の通りに。それは小説の会話文は作者による読者への説明の一部だと解釈するものだ。
それに対して宮﨑あおいや南田洋子はインタビュアーという個人に向けて話しているようなところが少しある。裕木奈江の場合は明らかに「一人の相手に向けて話す」話し方である。小説には人物の会話の文章として書かれているのだから無理もない。そのように俳優によって話し方が違うところが面白い。

小説では早い段階で作者が顔を出す。小糸静子の言葉は作者の質問に答える形で書かれている。小糸孝弘とは交渉の末にインタビューできた、と作者は自分の事情を書いている。ところが映画では作家と思しき人物(中江有里)が出てくるのは最後近くになってからなのだ。その姿
を映画スタッフが撮影している。小説と映画が微妙に違っている。

この小説は不動産の競売やそれにまつわる強制執行と占有屋の話が主題となっている。読者にとって馴染みのない話なので解説しなければならない。小説全体の地の文と会話文がともに読者への説明の雰囲気を帯びているのは、この主題のためではないかと思う。映画では小林稔侍が重みある演技で観客に説明していたが、小説ほど詳しく説明することはできなかった。地の文がなくセリフだけなので仕方ないのだが。

小説でインタビューでなく客観描写になっている人物は、映画でもカメラ目線の説明口調をせず客観描写になる。映画は客観描写が普通なので何も思わずそのまま見てしまうが、小説の場合は読んでいて少し詮索したくなる。(ひょっとしてこの人物にはインタビューできなかったのかな…)などと。小説は作者の語りが全編に影響を与えているからだろう。

wikipediaには宮部みゆきの言葉として「映画ですごいセリフが出てきたなと思ったら、何だ、私が書いてたわ(笑)」とある。映画で小説と同じセリフはいくつもあるが、私が一番驚いたのは小説の最後の文章がそのまま映画で字幕として表示されることだった。ここは作者が報告の文体をかなぐり捨てて個人的な思いを述べている。そしてそれは映画のトーンと合っている。映画が監督の思いによって作られていることが分かる場面だった。

ちなみに映画で印象に残った宝井姉弟(伊藤歩と細山田隆人)が夫婦と間違われる場面は、小説では彼女を知る人間が私生児を産んだ彼女への悪口の一環として「若いお父さんだこと」と言っているだけだった。篠田いずみ(多部未華子)が小糸孝弘(厚木拓郎)に興味を持つ場面は小説にはなかった。大林映画とはそういうものなのだろう。