渋谷ユーロスペースでラウラ・シタレラ監督「詩人たちはフアナ・ビニョッシに会いに行く」を観た。
詩人のフアナ・ビニョッシが亡くなり、身寄りのない彼女は遺言により知り合いの若い詩人たちに遺産管理を任す。詩人の一人メルセデス・ハルフォンは映画監督ラウラ・シタレラに遺産分配の様子を映画にするよう依頼する。
遺産管理人であるメルセデスは遺品の価値を定めなければならない。この書き込みはフアナのものなのか、他人のものか。この紙切れは捨ててもよいものか、保存するに値するものか。詩はどこまで永続するものなのか。物の時間的な価値を定めることは科学でもあり信仰でもある。
詩人たちはフアナのことをよく知っているがラウラはそれほどフアナのことを知らない。映画ではメルセデスが映っている場面にラウラの演出の声がかぶさり、ときどきラウラ自身も映っている。だが両者の関心の有り様は異なっている。インディペンデント映画であるということは自分の立ち位置も含めた自分の存在に意識的であるということなのだろうか。パンフレットによるとラウラが指示を出す場面を映すこと、メルセデスが主役として振る舞うことは、映画を制作しながら決まったことだという。
映画には生前のフアナ・ビニョッシを映した映像が挿入される。自作を朗読する彼女の映像にメルセデスとラウラの思索が重なる場面がこの映画の白眉だと思った。彼女たちは詩について、あるいは映画について語りながら、それぞれの立場からフアナの詩へと接近し、そこには確かにポエジーと呼べるものが現れていたから。「詩は決して交わらない二つのものを交差させる」これはフアナ・ビニョッシ本人の言葉である。
詩人のフアナ・ビニョッシが亡くなり、身寄りのない彼女は遺言により知り合いの若い詩人たちに遺産管理を任す。詩人の一人メルセデス・ハルフォンは映画監督ラウラ・シタレラに遺産分配の様子を映画にするよう依頼する。
遺産管理人であるメルセデスは遺品の価値を定めなければならない。この書き込みはフアナのものなのか、他人のものか。この紙切れは捨ててもよいものか、保存するに値するものか。詩はどこまで永続するものなのか。物の時間的な価値を定めることは科学でもあり信仰でもある。
詩人たちはフアナのことをよく知っているがラウラはそれほどフアナのことを知らない。映画ではメルセデスが映っている場面にラウラの演出の声がかぶさり、ときどきラウラ自身も映っている。だが両者の関心の有り様は異なっている。インディペンデント映画であるということは自分の立ち位置も含めた自分の存在に意識的であるということなのだろうか。パンフレットによるとラウラが指示を出す場面を映すこと、メルセデスが主役として振る舞うことは、映画を制作しながら決まったことだという。
映画には生前のフアナ・ビニョッシを映した映像が挿入される。自作を朗読する彼女の映像にメルセデスとラウラの思索が重なる場面がこの映画の白眉だと思った。彼女たちは詩について、あるいは映画について語りながら、それぞれの立場からフアナの詩へと接近し、そこには確かにポエジーと呼べるものが現れていたから。「詩は決して交わらない二つのものを交差させる」これはフアナ・ビニョッシ本人の言葉である。
この映画はフアナ・ビニョッシの伝記映画ではない。メルセデスやラウラとフアナとの関係性から詩の本質に迫ろうとした映画である。関係性によって詩が生じる瞬間をとらえたともいえる。
これは観てよかった。