私の中で芥川龍之介「本所両国」と「トロッコ」は近い関係にある。
「本所両国」で芥川は両国界隈を歩きつつ、明治の頃の思い出の景色と関東大震災を経た現実の景色とを重ね合わせる。この作品のクライマックスは泰ちゃん——下駄屋の息子、木村泰助君の作文を思い出す箇所にある。
小学時代の芥川は作文を定型的な美文調で書いていた。虹を題にして作文が出題されたとき、彼は自分の作が一番になることを予想していたが、一番になったのは彼ではなく泰ちゃんだった。教科書の匂いのしない生き生きとした口語文。夕立ちの通り過ぎたことを感じさせる文章。彼による自作の朗読を聞いて芥川は感動したのだった。淡々とした描写が続く随筆風の作品にあって、最後に感情の高ぶりが現れるのである。
「本所両国」で芥川は両国界隈を歩きつつ、明治の頃の思い出の景色と関東大震災を経た現実の景色とを重ね合わせる。この作品のクライマックスは泰ちゃん——下駄屋の息子、木村泰助君の作文を思い出す箇所にある。
小学時代の芥川は作文を定型的な美文調で書いていた。虹を題にして作文が出題されたとき、彼は自分の作が一番になることを予想していたが、一番になったのは彼ではなく泰ちゃんだった。教科書の匂いのしない生き生きとした口語文。夕立ちの通り過ぎたことを感じさせる文章。彼による自作の朗読を聞いて芥川は感動したのだった。淡々とした描写が続く随筆風の作品にあって、最後に感情の高ぶりが現れるのである。
それは「トロッコ」でも変わらない。作品のクライマックスはトロッコに夢中になって家から遠く離れてしまった主人公が、夕暮から夜に変わる道を一人我が家目指して必死に走る場面である。家にたどり着いた主人公は大声で泣き叫ぶのだが、どうも大げさな気がしてならない。少年の主人公にとって帰りが少し遅れたことがそんなに大ごとだったのだろうか、本当に当時の彼は泣いたのだろうか、という気がする。
だが最後に登場する二十六歳になった現在の主人公が、当時を懐かしく、愛おしく思い出しているのなら、少年の彼が泣き叫んだこともある意味で真実なのだといえる。作品の中で感情の高ぶりが姿を現したから、それを思い描いた現在の主人公が姿を現して物語は終わるのである。一体この作品は何だったのか、誰が何のために書いていたのかが最後に明かされる小説だとも言えるだろう。
両作品において大切に描かれるのは、懐かしいもの、心揺さぶられるもの——それは憧れや寂しさに裏打ちされたものであるかもしれないが——なのであり、それが作品のクライマックスを形作るのである。