2024年10月31日木曜日

芥川龍之介「本所両国」「トロッコ」

 私の中で芥川龍之介「本所両国」と「トロッコ」は近い関係にある。
「本所両国」で芥川は両国界隈を歩きつつ、明治の頃の思い出の景色と関東大震災を経た現実の景色とを重ね合わせる。この作品のクライマックスは泰ちゃん——下駄屋の息子、木村泰助君の作文を思い出す箇所にある。
小学時代の芥川は作文を定型的な美文調で書いていた。虹を題にして作文が出題されたとき、彼は自分の作が一番になることを予想していたが、一番になったのは彼ではなく泰ちゃんだった。教科書の匂いのしない生き生きとした口語文。夕立ちの通り過ぎたことを感じさせる文章。彼による自作の朗読を聞いて芥川は感動したのだった。淡々とした描写が続く随筆風の作品にあって、最後に感情の高ぶりが現れるのである。

それは「トロッコ」でも変わらない。作品のクライマックスはトロッコに夢中になって家から遠く離れてしまった主人公が、夕暮から夜に変わる道を一人我が家目指して必死に走る場面である。家にたどり着いた主人公は大声で泣き叫ぶのだが、どうも大げさな気がしてならない。少年の主人公にとって帰りが少し遅れたことがそんなに大ごとだったのだろうか、本当に当時の彼は泣いたのだろうか、という気がする。
だが最後に登場する二十六歳になった現在の主人公が、当時を懐かしく、愛おしく思い出しているのなら、少年の彼が泣き叫んだこともある意味で真実なのだといえる。作品の中で感情の高ぶりが姿を現したから、それを思い描いた現在の主人公が姿を現して物語は終わるのである。一体この作品は何だったのか、誰が何のために書いていたのかが最後に明かされる小説だとも言えるだろう。
両作品において大切に描かれるのは、懐かしいもの、心揺さぶられるもの——それは憧れや寂しさに裏打ちされたものであるかもしれないが——なのであり、それが作品のクライマックスを形作るのである。

2024年4月19日金曜日

私と翻訳(改訂版)

「私と翻訳」を改訂しました。構成が大きく変わっているわけではありませんが、文章の流れが良くなるように書き換え、自分についての説明を少し足しました。

(以下、「私と翻訳」改訂版)
かつて世田谷文学館で澁澤龍彦展が開かれたとき、彼の翻訳原稿を見たことがある。ほとんど書き直しのないきれいな原稿だった。なぜあれほど修正が少なかったのかわからない。下書きが別にあって清書したのだろうか。フランス語と日本語とでは文章の構造がまるで違うはずだが、どのように訳したのだろう。

私が趣味でドイツ語の小説の翻訳を始めたとき、初めて取り組んだのはムージルの「愛の完成」だった。ドイツ語の中でもとびきり難解な文章。すでに古井由吉さんの翻訳があるのにさらに翻訳する価値などあるのだろうか。だが私は人妻の不倫という題材を扱ったこの小説を、もっと自分好みの訳文で読むことはできないだろうかと思ってしまったのである。翻訳を出版するわけではなく、趣味として自分だけのために訳すのだから実力不足であってもかまわないだろう。初めのうちはこの名詞は4格だからこの動詞の目的語だ、などといちいち考えながら(初歩的すぎると呆れないでほしい)一歩一歩進んでいった。

締め切りもなく、自分の楽しみのために翻訳をすることは実は楽しいことである。翻訳を始めた当初は精神的に少し不安定だったが、一つの文章に徹底的に集中して考える行動は心の安定のためによかった。原文はどれほど時間が経っても変わらずにそこにあり、いつまでも待ってくれる。翻訳文を作るときは一つの文章ならそれほど長い時間がかかるわけではない。問題に対して比較的短時間のうちに自分なりの解答が得られるのは良いことだ。あとはそれを繰り返すのである。その場合も「愛の完成」のような中篇程度の長さであれば、長い作業だという感覚の中に、時間はかかるだろうがいつかは終わるという安心感がある。やがて翻訳の文章は少しずつ増えてゆき、自分の歩みを形として実感できる。自分はこれだけ進歩したのだ、と。

翻訳の文章の書き直しにはどこかオーディオ機器のセッティングにも共通するものがあると思う。プレーヤーは、アンプは何にするのか、スピーカーはどのように配置するのか、ケーブルは何を選ぶのかなど、やるべきことはたくさんある。だがそれはある意味で音のバランスを整えているようなところがある。高い物を買えば買うほど音がよくなるというものではない。低音から高音まで、柔らかい音から鋭い音まで、凹凸があるのを平らにする、バランスを整えて自分の好みの音を作っているというべきだろう。

翻訳について考えてみても、自分の好みを押し通すだけでなく、読者にとってどのような文章が分かりやすいか、どんな単語を選びどんな文章構造にするのか、あれこれ考えながら翻訳文を作ることになるだろう。原語の文章構造を考え、その意味を上位概念で把握し、それからその意味を表現するような日本語を考える。いったん上位概念に上がり、また具体的な文章に下ってくるような感じと言ったらよいだろうか。

ときどき思うのだが、現に書かれている文章よりも上のレベルで物事を考えることは、今の自分を高めようとする意識とどこかでつながっているのかもしれない。その場合の自分を高めるとは、優れた人間になるというようなものではなく、バランスが取れた状態を目指すという意味になるだろう。体の調子が整っているとか、心の安定が保たれているということ。

「愛の完成」のときは何度も推敲して何度も訳文を書き換えた。それは後から読み返すと不満を感じたからだが、自分の文章を何度も読んでいるうちに慣れてしまい感動できなくなったという理由もあったかもしれない。そう考えれば、翻訳を何度も書き換えることも、どんどん高みへと昇ってゆくようなものではなく、自分に対して新しい存在、新鮮な驚きを与えてくれる文章を求める旅のようなものになるだろう。

宮澤賢治も何度も自作を書き直す人だった。作品が完成してからも何度も改訂を加えているが(「銀河鉄道の夜」は飛び抜けて有名だが、それ以外にも改訂している作品は多い)、それはその時点で最もよい形態にするものであり、決定稿、最終稿を求めるという感じではないのだった。それは彼にとって日々の暮らしとともにあるもの、修行のようなものだったのかもしれない。

「トニオ・クレーガー」を翻訳したときは以前ほど書き直すことはなかった。翻訳の際の自分の文章がやっと固まってきた、書き直すにしてもすべてを最初から書き直すのでなく、修正にとどめることができるようになったということなのだろうか。そう考えれば、趣味で翻訳を始めてから時間が経ち、今やっとスタートラインに立ったといえるのかもしれない。

自分が進歩していると感じること、自分にとって世界が新鮮な驚きに満ちていること。翻訳という作業がそんな喜びに満ちたものであったらすばらしい。そんなことを願ってやまない。

2024年3月10日日曜日

プロフェッショナル仕事の流儀「ジブリと宮﨑駿の2399日」

プロフェッショナル仕事の流儀「ジブリと宮﨑駿の2399日」を観た。かなり以前に録画してあったものを最近になって観た。

画面の中のジブリ社内の机や台所はインテリア雑誌に登場する室内のように美しかった。別荘の山小屋の仕事机も美しかった。宮﨑さんが散歩に出かける近所の景色もまた美しかった。ほんの少しの編集を加えるだけで、それはドキュメンタリーでなく映像作品になるだろう。実際に番組はドキュメンタリーから離れかけていた。現在の映像の間にさかんに過去の映像を挿入する。宮﨑アニメの過去の作品の場面を挿入する。撮影兼ディレクターの荒川格さんの作品と言ってもおかしくないものになっていた。

映像の中の宮﨑さんは常に高畑勲さんのことを意識していた。現在の場面ではすでに高畑さんは亡くなっているが、過去の映像が挿入されるとそこでは高畑さんが笑顔でしゃべっている。気の弱い少年だった宮﨑さんを変えた人。会社の先輩であり、若き宮﨑さんが自分のアニメ作品を完成させる上で指針となった人。常にそばにいて宮﨑さんが優れた作品を生み出すようプレッシャーを与え続けた人。未来少年コナンは宮﨑さんが一人で製作に取り組んだが、一話の絵コンテを描いたところで力尽きてしまい、そこで手を差し伸べたのが高畑さんだったという。ナウシカのラストシーンは高畑さんのアドバイスだったという。

だが何だか不思議な気がする。観客として私から見た宮﨑さんは誰にも負けない面白い作品を作り出すことができる人、何でもないシーンを魔法のように輝かせることができる人であり、高畑さんに畏れを抱く理由などないから。また、私の知っている宮﨑さんは自分の作品に自信が持てないとか、誰か他人の作品が自分より上かもしれないとか、そんなことを考える人ではなかった。

宮﨑さんは自分の弱点がテーマの設定にあると思っていたのだろうか。そして作品のテーマについて深く理解しているのは高畑さんであると。だがどの作家にとってもテーマというものは難しいはずである。そして自分の作品の中でそのテーマを見つけるのは宮﨑さん本人しかあり得ないのであって、高畑さんではない。

テレビアニメの名探偵ホームズを思い出す。何人かの脚本家が交替で脚本を務めていたが、宮﨑さんの回はいつでも面白かった。それは脚本と演出の両方の能力のうち、特に演出の才能が際立って優れているということなのだろうと思う。どんなシーンでも印象に残る面白いものにしてしまう能力。

ルパン三世1stについて言えば、宮﨑さんはシリーズの前半には関わらず、後半から関わっている。だが全体としてみれば、私はシリーズの前半が好きだった。前半の不二子はあくまでも謎の女であり、ルパンに対する誘惑者だった。五ェ門は自分の美学を突き詰めた滑稽な男だった。ルパンには世間に対するニヒリズムと困難に挑む行動力の両面があった。そこには人間ドラマがあり、物語には複雑な陰影があった。

私は宮﨑作品を観るとき、明確なテーマがあり、目標が定まっていて、途中経過はその目標に向かうためにあるような作品を好んでいたのかもしれない。物語が目的地に向かう旅であるとするなら、その道にどのような美しい景色が広がっているか、誰と道中をともにし、どのような会話がなされるか、どのような事件が待っているかで私たちを楽しませてくれるような作品たち。

私は宮﨑作品に明快さを求めていたのかもしれない。例えば戦いの勝利、悪者の退治、少女の救出という明快さ。そのためだろうか、私は公開当時に「千と千尋の神隠し」を理解することができなかった。主人公の前に未知の世界が現れ、つぎつぎ事件が起きるが、それぞれの事件は主人公の内面の変化に影響するのであって物語の結論に影響するのではない。湯屋での騒動は物語がどこかに向っているという感じがせず、電車に乗るシーンは美しいが千尋にとってどのような意味を持つのかわからない。この作品に対する「少女の生きる力を呼び覚ます」という評を見たとき、その解釈は私からは生まれないと思った。どうやら私は宮﨑さんに対して固定観念があり、いつも同じ作品を求めていたようだ。

宮﨑さんは今回の映像の中で「脳みそのフタを開ける」「狂気の境界線まで行かないと映画って面白くならない」という言葉を発していた。可愛らしい少女を描いた健全で穏健な映画を目指しているわけではなかった。少なくとも、醜くドロドロとした危険なものを排除しているわけではなかった。

映像の中で現在の宮﨑さんと過去の宮﨑さんは容姿がかなり違っている。今は髪も白くなり、髭を生やし、やせている。見続けている人はそうは思わないだろうが、別人といってもよいほど違って見える。私の頭の中で宮﨑さんは昔の姿のままであり、現在の姿ではない。高畑さんが隣にいて、仲間内で陽気にはしゃぐ活力に満ちた人の姿。

番組は映画が完成し、日常が始まったことを伝えて唐突に終わる。結論は映画の中で語られるべきものであり、現実の生活は映画の結論とは無関係だと言っているようだ。映像の中で鈴木敏夫さんが「(宮﨑さんにとって)映画の中が現実。現実が虚構」と言っていたように。

2024年2月6日火曜日

私と翻訳

かつて世田谷文学館で澁澤龍彦展が開かれたとき、展示されていた彼の翻訳原稿を見た。ほとんど書き直しのないきれいな原稿だった。フランス語と日本語とでは文章の構造がまるで違うはずだが、どのように訳したのだろう。日本語の長い文章を頭の中で組み立てて一気に書いた、ということなのだろうか。

私が趣味でドイツ語の小説の翻訳を始めたとき、初めて取り組んだのはムージルの「愛の完成」だったが、まず日本語として成立する文章になるまで何度も書き直し、全文の翻訳が終わってからも数え切れないくらい訳文を書き換えるはめになった。後から読むと不満な箇所だらけだったから。だが適切な文章を探して自分の書いた文章を推敲し、何度も書き直すのは、実は楽しいことでもある。文章を書き直すたび、自分は進歩しているのだ(それが錯覚であろうとも)という気がしてくるからだ。

宮澤賢治も何度も自作を書き直す人だった。作品が完成してからも何度も改訂を加えているが(「銀河鉄道の夜」は飛び抜けて有名だが、それ以外にも改訂している作品は多い)、それはその時点で最もよい形態にするものであり、決定稿、最終稿を求めるという感じではないのだった。それは彼にとって、人生において日々の暮らしとともにあるもの、修行のようなものだったのかもしれない。

翻訳の文章の書き直しというと、私はオーディオ機器のセッティングにも共通するものを感じている。プレーヤーは、アンプは、スピーカーは何を買ったらよいのか。スピーカーはどう配置するのか、ケーブルは何を選ぶ、タップはどうする、インシュレーターをどう置く、など。やらなければならないことはたくさんある。

でもそれはある意味で音のバランスを整えているようなところがある。例えば直接音を出していないケーブルやインシュレーターについて、高い品物を買えば買うほど音がますますよくなるとしたら何だかおかしいではないか。低音から高音まで、柔らかい音から鋭い音まで、凹凸があるのを平らにする、こうあってほしい音の響きを出す、あちらを引っ込めこちらを出っ張らせて好みの音を作っていると考える方が自然だろう。

翻訳についても、自分の好みを押し通すだけでなく、読者にとってどのような文章が分かりやすいか、どんな単語を選びどんな文章構造にするのか、あれこれ考えながら翻訳文を作ることになるだろう。あるいはそれは、日々の暮らしをどのように行うかとどこかでつながっているともいえる。体の調子が整っているとか、心の安定が保たれているとか、バランスが取れている状態を目指すという意味で。

翻訳のとき人は原語の文章構造を考え、その意味を上位概念で把握し、それからその意味を表現するような日本語を考える。いったん上位概念に上がり、また具体的な文章に下ってくるような感じと言ったらよいだろうか。いま書かれている文章よりも上のレベルで物事を考えることは、今の自分よりも上の状態を目指すこととどこかで共通しているだろう。そして具体的な文章が目の前に現れたとき、それは自分に対して新しい存在、新鮮な驚きを与えてくれるものとなるだろう。

自分が進歩していると感じること、自分にとって世界が新鮮な驚きに満ちていること。翻訳という作業がそんな喜びに満ちたものであったらすばらしい。そんなことを願ってやまない。

2023年12月3日日曜日

映画「アポロニア、アポロニア」

菊川Strangerで「アポロニア、アポロニア」を観た。

前回観た映画は「春原さんのうた」だった。日常のような景色を新鮮な気分で集中して観ることができ、聴こえる音に耳をすますことができた貴重な体験だった。そのためもあってか、このカフェが併設された席数49のこじんまりした映画館に対してどこか親しみのようなものを感じている。期待して映画を観た。

このドキュメンタリー映画でレア・グロブ監督はアポロニアがまだ美術大学の学生だった頃から13年間に渡って彼女を撮り続けた。

アポロニアの人生は波乱万丈だった。彼女の家族が暮す家は劇場であり多くの芸術家たちのたまり場だった。両親は彼女が生まれる前から(!)アポロニアの姿を映像に収めており、その映像は映画の中でも一部使われている。彼女が子供の頃に両親は離婚し、母親とともに劇場を追い出された彼女は生命が危ぶまれるほどの重病を体験している。後に彼女は生家である劇場に戻るのだが、そこは女性権利団体FEMENの拠点となり、アポロニアは代表のオクサナと親しくなる。その影響があったのかなかったのか、後に劇場は放火され、さらに彼女は傷害事件に巻き込まれそうになった。

そんなことがありながら彼女は職業として画家を選んだ。選んだからにはどれほど人生が困難に満ちていたとしても絵を描かなくてはならない。美術大学を卒業するまでは絵のことだけを考えていられたが、プロとして生計を立てるには絵を売るために人脈を作り、絵を描くことのできる環境を作らなくてはならない。芸術は人生とは別にあるものではないのだから。

初めて個展を開いたとき、彼女は「絵に十分な時間をかけられなかった」と言い、評論家は「描かれた人物が死者のように見える」「対象に対する愛が感じられない」と言った。彼女は自分が絵を売るために魂を他人に売り渡したのではないかと思って泣き崩れるが、「○○がない」と分かるということは、それが大切なものだと分かったことの裏返しだ。

彼女は確かに周囲の状況に追われるように絵を描いたが、自分にとって大切なもの、自分の愛の対象を見失ってはいなかった。当初はモデルを使って絵を描いていたが、後年になって描く対象は人生において彼女が関わった女性像へと変わった。その中には後に自殺したオクサナが描かれた絵がある。批判された当時の彼女の絵のタッチと、称賛されるようになってからの彼女の絵のタッチがそれほど大きく変化しているとは思えない。対象を見つめる眼が深化したということなのだろう。

レア・グロブ監督の撮影は通常のドキュメンタリーではない。アポロニアに対するカメラの接近度合いは恋人、家族の視点に近い。ある場面で男のカメラマンが、宣伝写真なのだろうか、彼女を撮っていた。数十メートルはあろうかというアナルプラグの形の立体作品の前でアポロニアは「裸になりたい」と言った。男のカメラマンはやんわりと拒否する。その様子を映画のカメラはとらえている。アポロニアはレアに向けて撮ってくれと言い、レアはそれに従って裸の彼女を映像に収める。信頼の度合いが男のカメラマンとレア・グロブとでは異なっているのである。

監督は客観的な無色透明の立場で彼女にカメラを向けることをしなかった。単にアポロニアを撮るだけでなく、彼女の人生に関わり、自分自身も途中で病に倒れながら何とか復帰して映像を撮り続けた。あれほどの困難を乗り越えてなお映画を完成させるのは愛情でなくて何だろう。この映画は芸術家の成功が描かれ、男性に依存しない自立した女性像を提示しており、それは現代社会に受け入れられそうな題材である。だがこの映画の本当の要は、撮影者が被写体に対して愛情を持っていたことにあると私は思っている。

2023年11月9日木曜日

ムージル「愛の完成」感想

ムージルは「寄宿生テルレスの混乱」で作家としての第一歩を踏み出した。
物語は少年テルレスが親元を離れ、全寮制の学校に入学するところから始まる。彼は同じ学校の生徒である他の少年たちとさまざまな体験をするが、とりわけ重点が置かれているのは少年たちによる一人の生徒への虐待である。バジーニという生徒が周りの少年たちから精神的だけでなく肉体的にも痛めつけられるのだが、それが物語のクライマックスになっている。その光景を目にしたテルレスは目もくらむほどの強烈な性的衝動を感じるのである。
物語はテルレスがバジーニの件で退学することになって両親の元に戻るところで終わり、彼のその後の人生を描くことはない。後に彼が加虐に性的な喜びを感じる人間になったとか、同性愛者として人生を送ったなどと書かれることはない。
ムージルの筆は性の衝動がテルレスにとって未知の衝撃として襲いかかるその一瞬に着目しており、性の衝動を生活の一部として表現したり人生の中に位置づけたりしていない。さらにムージルの次作を見ても、性愛は重要な位置を占めているものの、主人公の生活を描くことに主眼は置かれていないのである。

ムージルが「テルレス」に続けて出版した短篇集「合一」は、「愛の完成」と「静かなヴェローニカの誘惑」の二作品からなる。ここでは「愛の完成」について書くことにしよう。
この作品には主人公クラウディーネが夫から離れ一人で旅をする途中で行きずりの男と不倫を行うまでが書かれている。だがその文体や内容は通常の小説からはかけ離れている。抽象的で難解な、濃い霧の中を歩いているような、焦点の合わない画像を見つめるような、自分がどこにいるのか分からなくなるような文体。彼女にとって夫との関係に何も問題はないのだから、不倫を行わなければならない理由は見当たらない。しかしクラウディーネは一人で思索にふけりながら不倫を行うことは可能だと考える。

私たちは、私たちのような人間は、もしかするとこんな人間たちとも一緒に暮らせるのかもしれない。

そのとき彼女は、私は他の男のものにもなれるのかもしれない、と考えることができた。そしてそれが不実ではなく、何か究極の結婚のように感じられた。 

人がしばしばどこか遠い場所に何かを見つけ、自分とは無縁のものだと思っていたのが、いざその場を離れ、その何かが自分の生活に関わる領域のある地点まで入り込んでくると、自分が以前いた場所は今は不思議なことに空っぽで、自分は昨日これやあれをしたのだと想像する必要があるというのはなぜだろうという気がした。

彼女は不貞を日常に開いた裂け目あるいは深淵のようなものとして想像する。そしてもしもその中に身を投じるなら自分はその状況に順応するだろう、と考えるのである。これは新たな別の生活が始まるということとは少し違っている。抽象的な文章は不貞を生活の中に存在するものとして描こうとしない。生活とは異質なもの、異なる次元にあるものとして不貞がとらえられているのである。

こういった人々の中には、私にはふさわしくない、私とは他人だと思うような男が暮らしている。けれどももし私がその男にふさわしい女になっていたなら、今日そうであるような自分については何も知らなかったかもしれない。

もしも私がこの男たちの一人の生活圏内に閉じ込められたとしたら、そのときなるであろう人間に私は実際になり得るのだろう。そしてその場合の現実の出来事とは、ある意味どうでもよいものでしかなく、脈絡もなく生じた裂け目からときおり一瞬だけ吹き出すようなものであって、その下の誰も足を踏み入れたことがなく、決して現実とはならないものの流れの、孤独で俗世を離れた優しい音は誰も聞くことはないのだろう。

任意の一秒はどれも深淵のようなものであり、人を病人に変えたり、他人に変えたり、色あせたものに変えたりするのだが、単に誰もそれに気付かないだけなのだ。

それはまるで、人が途切れることなく話しているとき、どの言葉も前の言葉が必要としていた言葉であり、また次の言葉を必要としているというふりをするのだが、それは言葉が途切れた沈黙の瞬間に何か想像もつかないふらつきを感じ、また静寂によって言葉が分断されるのが怖いというようなものだ。けれどもそれは、人のすべての行動の相互間には恐ろしい偶然性が口を開けているということに対して、ただ不安になり弱気になっているだけなのだ……

この作品の裏側に隠れているもの、決して明らかにならず底流のように潜んでいるものとしてクラウディーネの不感症的傾向がある。ムージルの筆は抽象的であいまいだからそのような傾向を読み取るのは意味を限定しすぎているという誹りをまぬがれないが、拙訳はそのように訳した。
クラウディーネは性の世界を自分から離れた異質なものとして想像する。異質なものであるからこそ、それは自分には制御できないものであり、外側から自分を誘うものであるように感じるのである。

他の人間にとっては愛の場面で意識もしないような固くしっかりした基礎の部分に、彼女の場合は不確かなもの、何かゆるんだもの、暗く閉ざされた感覚があるのだった。我を忘れた興奮にあこがれる、どこか病んだ自分に対するかすかな不安が彼女にはあり、究極の絶頂感に対する予感があった。そしてそれはときおり、まるで人に知られぬ愛の苦しみが自分に定められているような予感になるのだった。

彼女はその瞬間、彼女の体はそれ自体が感じたものをまるで故郷のようにぼんやりとした障壁として覆っている気がした。彼女の感覚自体は誰よりも近いはずの彼女に対して閉ざされており、不意にそのことが夫と自分を隔てる紛れもない不実であるように感じられた。

クラウディーネの不倫相手は参事官と呼ばれるが、彼が何者なのかははっきりしない。だがそれはこの小説の抽象的な文章にふさわしいともいえる。すべての文章はまるで方位磁針のように不倫という結末を指し示し、主人公は機械のように正確に不倫という行動に向かって動く。だから小説が終わった後の彼女の人生が想像できない。彼女は無名の彼、匿名の存在の彼に惹きつけられてゆく。

そしてそのとき不意に参事官の姿が頭に浮かび、すると彼女は刺激を感じた。男が自分に対して欲望を抱いていることを彼女は知っていた。さらにここで可能性との戯れでしかないことが、彼の元では実現することも。

彼女は参事官が今どこかで自分のことを待っている気がした。すでに周りの狭い視界に彼の息が満ち、近くの空気に彼の匂いがするのだった。彼女は落ち着きがなくなり帰り仕度を始めた。彼に会いに行こうとしている自分に気付き、それがどのような結果をもたらすかを考えると、たちまちその想像は彼女の体を冷たくとらえてしまった。まるで何かに体をつかまれ、扉へと引きずられているような感じだった。

彼女の体が男の体の下に横たわる姿を、小川の流れのようにあらゆる細部まではっきりと思い描いた。青ざめた自分の顔を、身を任せるときの恥ずかしい言葉を、彼女の上に覆いかぶさり、彼女を押さえ付けている男の猛禽類の翼のように逆立つ目を感じた。

彼女は自分自身の行動のすべてを、この上ない鮮明さで見るのだった。これまで彼女から奪われていた姿、快楽に翻弄される姿を、およそ彼女の心が誤って取り除き、放棄していた姿を──。やがてそれは小さく、よそよそしく、他とのつながりを失い、遠く遠く離れていった。

最後の場面でクラウディーネと参事官は会話を交わす。小説の初めの頃はあれほど長かった一つ一つの文章は短くなり、結末に向けて物語の流れが速くなったことを読者に伝える。クラウディーネは参事官を部分的に好きになったことを認める(と解釈してもよいだろう)が、まだ彼女は抵抗しており、全体として好きになったとは認めない。

 それから参事官は彼女の部屋でそばに座っておおよそこう言った。君は僕のことが好きなんだね。僕は確かに芸術家でも哲学者でもないが、立派な(ガンツァー)人間だと思うよ。 

 それで彼女は答えた。「何ですか。全体としての(ガンツァー)人間というのは。」「おかしなことを聞くね。」参事官はむきになったが、彼女は言った。「そんなことはないと思います。あの人の目が好き、あの人の話が好き、言葉ではなくて声の響きが好き、だからあの人のことが好き、というのはおかしいわ。」

ちなみにこの部分を読んでいて、(この二人は何を言い争っているのだろうか)(もしかすると部分的に好きだとか全体的に好きだとか言っているのではないか)と思った瞬間は忘れられない。まるで霧が晴れるような、レンズの焦点が合ったような感覚があった。「この作品全体を訳してみたい」と思った瞬間だった。
最後の最後になって、クラウディーネの参事官に対する呼びかけは敬称 Sie から親称 du に変わる。(古井由吉氏の日本語訳では「参事官さん」「あなた」と訳していたが、拙訳でもそれを踏襲した。)愛している、愛していないという意見の対立は解消される。彼女は深淵へと身を投げ、参事官を愛することで肉体的な満足を得る。まったく別の人間へと変わるその有様は、まるで心を体が裏切る典型的な官能小説のようだ。

 そして彼女はもう一度言った。
 「お願い、離れてください……」彼女は言った。「……嫌だわ……」
 けれども彼は微笑んでいるだけだった。それで彼女は言った。
 「あなた、お願い。離れて。」
 すると彼は満足の溜息をもらした。「やっと君は言ってくれたよ。愛しいかわいい夢想家さん。あなた、と。」 
 するとそのとき、彼女はぞっとするような感覚に体を震わせ、快感があらゆる障壁を乗り越えて彼女の肉体を満たしたことを感じるのだった。

この「愛の完成」という作品を、「一編の交響詩を聴くよう」「素材に依らずともそのものが音楽としてなっている文学」と表現して愛好したのはピアニストであって文筆家の青柳いづみこ氏だった。ムージルの研究者は難解だが密度の濃い小説としてこの作品を重要視している。インターネットを検索すればこの作品に感動した人の感想がたまに見つかる。それぞれの人がそれぞれの感想を持ってかまわないだろう。

だが私が言っておきたいのは、この「愛の完成」という作品は──難解な外見の裏側に──かなり隠微なエロティシズムが表現されているということだ。読者の皆様はどうお考えになるか、聞いてみたい気もする。

2023年10月15日日曜日

「ヘンルーダ」について

松岡千恵さんの著書「ヘンルーダ」に興味があった。
岬書店から出版されている。夏葉社の島田潤一郎さんが発行者になっている。
著者は現役の書店員だとのこと。書店員の仕事にまつわるあれこれや、書店で働く人々の姿が描かれる。エッセイのようでもあり、フィクションのようでもあるそうだ。書店によって置いてあるところもあるが、どの書店にもあるという販売形態ではないらしい。

エッセイとフィクションの混合という点に興味を持った。
「起きたそのままのことを書く」エッセイに対して、フィクションによって方向性を定め読者を思索へと誘うような、そんな話の膨らみを持たせることはできるだろうか。フィクションが嘘の方向でなく真実の方向に向かうことはできるだろうか。
フィクションのあり方について個人的に関心があったから、「ヘンルーダ」を読んでみたくなった。

その日は休日だった。普段買い物をするときに行くような場所だけでなく、それまで行ったことのない新しい場所、珍しい体験をしてみたくなるような日だった。
家の近所を休日に歩く景色は、同じ場所を平日に歩くときと景色が違って見える。けれどもそれは気分が大きく変わるというような大袈裟なものではない。同じ景色を少し違う気分で歩くことは、大きな気分の変化をもたらさない。
そこで今まで一度も行ったことのなかった上野のルートブックスという本屋に行こうという気になった。
カフェが併設された本屋。カフェの中に本棚が並んでいるような作りの本屋。その存在は知っていたが一度も行ったことのない本屋だが、どんな本屋なのだろう。

上野駅から歩いてルートブックスに向かった。表通りから少し入ったところにある本屋だった。昔ならたどり着けなかっただろう。GPS機能付きの携帯電話がなかったころの昔には、ギャラリーや雑貨屋に行こうとしてたどり着けなかったこともあった。ルートブックスは駅からさほど遠いわけではないが、ふとそんなことを思い出す。
店の前の通りには車が止まっていて道が狭くなっていた。店の前に植物が生い茂り、植物に囲まれた印象のある本屋だった。木のドアを開けて入ると入口近くにはテーブルが置かれ、その上には本の入ったケースがいくつもある。
その空間は、本棚が並んでいるだけの普通の書店とは少し違っていた。カフェの中に足を踏み入れたような感じだった。本箱の中には何冊ものZINEが入っていて普通の本屋とは品揃えが違っていた。
「購入前の本をカフェコーナーに持ち込まないでください」張り紙がいたるところに貼ってあった。本コーナーで本を買い、喫茶コーナーでその本を読むことを想定しているのだった。

丸の内キッテに昔あった書店のことを思い出した。隣にはカフェスペースがあった。店内は広いというほどではなかったが、本の選定に独特の個性があった本屋だった。
日本橋高島屋に黒澤文庫という書店があって、本格的なコーヒーの店が一体化している。行ったことはないけれど。

「ヘンルーダ」を読んでみた。
確かに作者の体験を書いたエッセイのように初めは思えた。書店員の作者が本屋で体験したこと、書店のアルバイト店員のいろいろな行動が語られる。
風変わりなアルバイト店員の風変わりな発言、あるいは店員が巻き込まれた思いがけない事件など。けれども読んでいるとこれはフィクションなのではないか、実際にあったことを書いているのではないのではと思えてくる。どこか不思議な奇妙な世界が顔をのぞかせる。
短篇集の一つ一つの作品が短いから、奇妙な世界は真実と虚構のどちらとつかないまま終わる。読者は宙ぶらりんになったまま放り出されてしまう。登場人物たちはこれからどうなるのだろう。そもそも彼らは本当に実在したのだろうか。
普通の本は厚紙の表紙にさらに紙がかぶせてあるけれど、この本にはない。これを「チリなし製本」と言うらしい。覆いをかぶせるようなカバーのない製本は、作者の心の声を直接聞くような思いがする本の内容と合っている気がした。