三浦哲郎は随筆「橇あそび」の中で学生時代に読んだチェーホフの短篇について書いている。ただし作品名は忘れてしまったと書いている。
三浦の紹介する話は次のようなものである。
思春期の少女が男友達に橇に乗せてもらって丘の急斜面を滑降する。吹き付ける風の中で、少女は「僕は君が好きだ」という声を聞いたような気がする。だが少女はそれが男友達の声なのか、風の唸りなのか、空耳なのか、判断がつかない。気になった少女はまた橇に乗る。するとまた君が好きだという不思議な声。少女はその声が聞きたいばかりに、麓に着くと言わずにはいられない。「もう一度乗せて。」
この話に関連して、梶井基次郎に「雪後」という小説がある。主人公は友人から聞いた話であり間違っているかもしれないと断った上で、妻にあるロシアの短篇作家の書いた話を紹介する。それが先にあげたチェーホフの作品なのである。ただし梶井は作家名と作品名を書いていない。
梶井の紹介する話は次のようなものである。
男と女が橇に乗り、風が耳元を過ぎる。風の中で女は「ぼくはおまえを愛している」という言葉を聞いた気がする。確かめるためもう一度乗る。また「ぼくはおまえを愛している」という声が聞こえる。だが何度乗っても確かなことはわからない。やがて二人は離れ離れになり、別の相手と結婚する。だが年老いても二人はその日の雪滑りを忘れなかった。
三浦の「橇あそび」の短篇は梶井の挙げたチェーホフの作品と同じだと判断してよいだろう。
ところが、ある人によると、三浦哲郎は梶井基次郎の「雪後」という作品を読み、その中に出てくる「ロシアの短篇作家の話」をチェーホフの作品だと思って全集を探したがどこにもなかった、と書いていたという。
本当に三浦哲郎は全集にあたっても見つけることができなかったのだろうか。もしそうだとしたら、見つからなかったのはなぜだろう。
先に挙げたチェーホフの作品は「たわむれ」という題名で訳されることが多い短篇であり、たいていのチェーホフ全集に収められている。
三浦哲郎は「たわむれ」の題名を覚えていなかったにせよ、内容は覚えていたのだから、全集の中にその作品があれば気づいたはずである。
それとも、三浦哲郎はかつてはチェーホフの全集の中に「たわむれ」を見つけることができなかったが、その後に作者がチェーホフであることは知ることができた、ということなのだろうか。
集英社の「新訳チェーホフ短篇集」(沼野充義訳)ではチェーホフの作品は「いたずら」という題名に訳されている。
この本での「いたずら」の印刷の仕方は少し変わっていて、雑誌掲載版と改訂版の両方が載っている。チェーホフは作品の印象が変わるほどの大きな改訂をしていたのだ。作品は初めは一段組で印刷されているのだが、途中から、すなわち雑誌掲載版と改訂版に違いが生まれるところから、印刷は二段組になる。上は雑誌掲載版、下は改訂版。両者の違いが一目でわかるようになっているが、随分と変わった印刷をしたものだ。
改訂後の「いたずら」は次のような内容である。
「ぼく」はナジェージュダ(ナッちゃん)を橇に乗せる。飛ぶように滑る橇の勢いが強くなり、耳元に風のうなり声ばかりが聞こえるところで「ぼく」は「好きだよ、ナッちゃん」とささやく。ナッちゃんはその言葉を本当に「ぼく」が言ったのか、風の音を聞き間違えたのか、知りたくてたまらない。二人で何度も橇に乗り、そのたびに「ぼく」はナッちゃんに「好きだよ」とささやき続ける。ナッちゃんはそれが「ぼく」の言葉なのか、風の言葉なのかわからないまま、その言葉に病みつきになり、その言葉なしではいられなくなってしまう。だが橇遊びの季節は終わり、「ぼく」は別の町に行くことになり、彼女にその言葉を言ってくれる人はいなくなる、青白い物憂げな顔のナッちゃんを「ぼく」は塀の陰から見つめ、風が吹くのを待ち受けて、もう一度「好きだよ」という言葉をかける、そのときの嬉しそうなナッちゃんの様子といったら!やがて彼女は別の男と結婚するのだが、あの橇遊びの「好きだよ」という言葉を聞いたときが生涯で一番幸せなときだったのだ、だが「ぼく」はどうしてあんな言葉を言ったのか、何のためのいたずらだったのか、わからない…
これに対して、改訂前の雑誌掲載版は次のような内容だった。
橇遊びの季節は終わる。もうナッちゃんはあの言葉を聞くことはできない。あるたそがれどき、「ぼく」はナッちゃんが憂いに満ちた顔を木々に向けているのを目にする。春の風に、あの甘い言葉を運んできて、と願っているようだ。「ぼく」は風が吹くのを待ち受けて、灌木の陰から「好きだよ」と言葉をかける、そのときの嬉しそうなナッちゃんの様子といったら!「ぼく」はナッちゃんに向かって駆けていく…でももうこの辺で結婚させていただきましょう。
雑誌掲載版の方は理解しやすい。一人の男が女にいたずらを仕掛けるが、結局真相は明かされ、男はいたずらの責任を取って二人は結婚する。
それに比べて改訂版の方は難しい。「女はその言葉にやみつきになる」「その言葉を忘れられない」「それは彼女にとって生涯最高の瞬間だった」というのは男の見解というより作者自身の見解なのだから。いたずらの件はどうなったのか、よくわからないところもある。
ここで三浦哲郎がこの物語をどうとらえたかを思い出すと、女が主人公になっているところが面白い。不可解な状況に置かれた彼女が真相を求めて行動する、まるでミステリのような感じもある。結論は書かれていないが、小説の内容を紹介している文章ではないのだから、これはこれでよいともいえる。
梶井基次郎による解釈の場合は、二人が別れるところは改訂版通りだが、二人の忘れられない思い出に着目して美しい物語になっている。けれどもありきたりの物語になっているようなところもあり、チェーホフの原作とは少し印象が違っているともいえる。
チェーホフの原作は、最初は男の視点で男のいたずらが書かれるが、途中から作者の視点に変わる。物語はどうなるのだろうと登場人物に感情移入していたら、途中から作者の解説の方が重要な位置を占めるようになっていた、という少し読者を混乱させるところがある。
改訂前の幸せな結末を無理やり操作して悲しい結末に変えたため、前半と後半が少し分離してしまったような、なんとも居心地の悪い、けれども不思議な印象を残す作品になっているようだ。