2022年12月18日日曜日

葛西臨海水族園に行った。


葛西臨海水族園に行くのは実は初めてだった。ぐるっとパスで入場できることがわかって行ったのだが、今回行ってみていつかまた行きたいと思った。

京葉線の葛西臨海公園駅で電車を降りた。目の前に公園に向うメインストリートが延びている。道は広々としており、朝の日を浴びて晴れやかな気分で水族園に向かった。しばらく進んで左に曲がるとその先に水族園がある。建物だけの「水族館」ではなく、屋外の展示や周りの散策路を含めて「水族園」と呼んでいるのだ。

その散策路は水族園から帰るときに通った。道の両脇は芝生が整備され、さらにその向こうには木が並んで植えられていた。芝生の上はきっと暖かい季節には家族連れのピクニックでにぎわうのだろう。

水族園にぐるっとパスで入るときは、管理室をインターホンで呼び出して、ぐるっとパスを見せ、すると入場券のようなものを渡される。それを入り口で渡して入る仕組みになっていた。ぐるっとパスで入場する人が多かったらどうするのだろう、混雑して時間がかかりそうだな、と思いながら入った。

建物内の展示には、入場者の興味を引くような配慮が感じられた。水槽の上から係員の手が伸びてきて餌を与える。餌を食べるところを見せているわけだ。展示されているのは常に動いている魚ばかりではない。深海の生物たちはじっとしていることもある。すると今度は係員が棒のようなもので触れて動くよう促していた。
屋外に出るとペンギンの展示があった。横に長い水槽は水上の様子も水中の様子も見ることができるようになっていた。水の中を飛ぶように泳いでみたり、水中で糞をしてみたり。

さりげなく学問的な展示もされていたことが印象に残った。
屋外に潮だまりの展示があり、本物の海のように人工的な波を起こして潮だまりを再現していた。脇の水槽では生き物に触れることができた。
建物の中には世界の色々な海の様子が展示があり、どの海域にどのような魚が棲んでいるかを教えてくれた。さらにまた、クラゲやプランクトンなどについて学問的な内容を楽しく伝えようとするコーナーがあった。
マグロの回遊展示で有名な水族園だが、それだけでない展示全体に魅力を感じることができた。よかったと思う。


2022年12月3日土曜日

牧野信一「爪」「闘戦勝仏」「月下のマラソン」

 wikipediaの牧野信一の項を見ると、デビュー作として「爪」と「闘戦勝仏」の2作が候補としてあげられ、どちらをデビュー作とするかについては複雑な問題があると書いてある。「爪」の初出は1919年(大正8年)12月発行。「闘戦勝仏」の初出は1920年(大正9年)10月発行。
 ところが牧野は作家として活動する前に時事新報社の雑誌「少年」「少女」の編集の仕事をしており、そのとき雑誌にいくつかの作品を寄稿しているのだ。
 例えばその中の「月下のマラソン」の初出は1919年(大正8年)9月発行で、「爪」や「闘戦勝仏」より早い。にもかかわらず「月下~」がデビュー作とみなされないのは、正式な作家活動以前の作品と考えられているからだろう。
 だがそれにしても「月下のマラソン」は強い印象を残す。
 中学生の主人公は夜間に開催される学校対抗のマラソン大会に参加する。応援の人垣がとだえ、急に静かになったコースを走りながら思索にふける。空に浮かぶ月を見て事故で亡くなった友人を思う。友人は遠い世界に行ったのではない、常に月のように自分のことを見ている、どれほど遠くまで走っても自分についてきてくれる、と。
 少年少女のために書かれた作品には、夢見るような美しさがあった。

 牧野信一には「ギリシャ牧野」と呼ばれる時期がある。例えば「ゼーロン」であれば小田原駅から足柄峠に向けての旅行がストア学派の吟遊詩人の旅に変わるように、現実と空想が二重写しになり、日常の風景が楽園《アルカディア》と変化する作品が多く書かれた時期である。
 重苦しい血縁関係に閉じこめられるような私小説を書いていた作家が、幻想の翼を得て天高く羽ばたくような作品を書くようになった時期だった。
 では「ギリシャ牧野」時代とは、まぐれのようなもの、ただの徒花だったのだろうか。
 少年少女のために書かれた小説を読んでいると、そんなことはない、と思わせてくれる。子どもに向けられた美しい空想、幻想性は「ギリシャ牧野」時代の作品たちの萌芽という感じがする。
 「ギリシャ牧野」の作品たちは、彼が小説を書き始めた若き日の作品たちとつながっている。そう思えたことはうれしかった。
 デビュー作がどちらの作品であるかはどうでもよい。二人のライバルが競い合うように並んでいるかのようなその後ろで、自らの存在をひけらかすことなくたたずんでいるもう一人の姿。私はそんな場面をふと想像してしまった。正式なデビュー作とは認められなくても、牧野信一はこの「月下のマラソン」という作品を世に残した、その方が大事なことだ。
 自分の中だけで満足を感じながら、今まで読んでいなかった「闘戦勝仏」はどんな作品なのか、読んでみた。
 玄奘と悟空たちの旅を書いた物語だった。
 彼らは旅の途中で朱紫という国に着くのだが、景色も人々の容姿も優しく美しい。その中にあってこの世のものとは思えぬほど美麗な王と王妃のために悟空は奮闘する。
 どこかユルスナールの「東方綺譚」を連想させるような、幻想小説という形容がぴったりの作品だった。
 牧野信一の他の小説とは全く毛色が異なっており、ここにも幻想的な作品が存在したのか、と思いながら最後の行にたどり着くと、そこに書かれていた文字。
 (七年八月作)
 大正7年(1918年)8月ということだろうか。発表が後になっただけで、書かれたのはもっと早かったということだろうか。発表順でなく書かれた順に並べるとするならこれが最初の作となるのかもしれない。
 そうすると、デビュー作を「爪」と「闘戦勝仏」の2つで争っているのは、発表が先か制作が先かという点でだったのか。
 私が頭の中で思い描いた「二人のライバルの影に隠れる一人の姿」というのはあまりにもピントが外れた物の見方のような気がしてきて、もう一度頭の中で作品たちの姿を想像してみた。
 「爪」は私小説として、「闘戦勝仏」は幻想小説として、「月下のマラソン」は現実と空想が二重写しになった小説としての姿でそこに現れた。さらに「ゼーロン」の最後の場面で作者と銅像と父とゼーロンが四人組の踊り(カドリール)を踊るように、それぞれの作品が手を取り合ってたたずんでいるように思えてきた。そしてそんな彼らの姿を月の光が優しく包んでいるような気がするのだった。

2022年11月5日土曜日

シュニッツラーのTraumnovelleという小説のタイトルを何と訳すか?

シュニッツラーという作家に“Traumnovelle”という小説があるが、この作品の題名を何と訳すべきか迷ってしまった。Traumは「夢」でよいと思うのだが、問題はnovelleの方で、題名としてふさわしいのはどのような訳語だろう。すでに何種類かの日本語訳が出ているから、それを参考にしてみよう。先人たちは題名をどう訳しているだろうか。

調べてみると、出版されている書物ではいくつかの異なる題名が存在することがわかった。
岩波文庫の池内紀・武村知子訳では「夢小説」となっている。
ハヤカワ文庫の尾崎宏次訳では「夢がたり」となっている。直訳すれば「夢小説」になることを認めつつ、編集者とも相談の上で「夢がたり」に決めたとのこと。
文春文庫の池田香代子訳では「夢奇譚」となっている。
さまざまな題名に訳されているが、訳者たちはなぜその題名にしたのかを明確に、簡単に分かるように書いてくれてはいなかった。

辞書でnovelleという単語を調べてみよう。
独和辞典によるとnovelleは「ノヴェレ、短編小説、短話」である(小学館独和大辞典)。
独独辞典によるとnovelleは「短篇あるいは中篇の長さを持ち、単独の事件を扱い、結末に向けて直線的な筋の経過をたどる物語」とある(Duden Wissensnetz Deutsche Sprache)。
ちなみに英語のnovelは長篇小説のことを指す(短篇小説はshort storyと呼ばれる)から、ドイツ語のnovelleとは異なっている。また英語のnovelには「新しい」という意味もある。だから人が小説のnovelと「新しい」という概念とを結びつけたとしてもそれはおかしなことではないだろう。
ゲーテがnovelleという単語について「前代未聞の出来事にほかならない」と言っている(エッカーマンの「ゲーテとの対話」による)。ではシュニッツラーのTraumnovelleという小説の内容を見てみよう。どのような内容だろうか。

主人公はフリードリーンという医師であり、妻と幼い娘がいる。妻との仲は良好だが、身の回りにいる何人かの女に戯れのような浮気心を抱いている。ある夜、彼は秘密のパーティーに参加する。初めは舞踏会のように思われたが、途中から大勢の裸の女たちが出てくる夢の世界のような奇妙なパーティーだった。一人の女と会話を交わしたところで彼は部外者であることがばれて追い出される。朝帰りをした彼は妻から彼女の見た夢の話を聞かされる。とりとめのない、それでいて彼女の心の奥にある浮気願望を感じさせる夢だった。彼は腹を立て仕返しをしようとするが、浮気相手ともくろんでいた女たちは次々と彼の元を去る。パーティーで出会った女と思われる女が自殺したことを新聞で知る。病院の死体置き場を訪れて確かめようとするが、当の女かどうか判断できない。主人公は浮気心を捨て、妻と誠意をもって向き合うことを決心するのだった。

Traumnovelle の訳語の候補として、池田香代子訳の「夢奇譚」を考えてみよう。
ゲーテによるとnovelleとは「前代未聞の出来事」であるが、「珍しい話」「珍奇な話」「奇妙な話」と言われることがある。novelleという題名を持つ小説にもさまざまな内容が含まれるということだろう。
だがそのような中においても奇妙な雰囲気の小説であれば、「奇譚」という語を使ってもよいと思われる。奇妙な話と呼ばれるための条件としていくつかあるだろうが、夢のような不思議な話、日常と異なる論理が支配する話などは奇妙な話と呼んでよいだろう。
もう少し題名にnovelleという語を含む小説を考えてみよう。シュニッツラーの他にもツヴァイクやゲーテの作品にnovelleを含む題名の作品があるから、それらを見てみよう。

ツヴァイクにはSchachnovelleという小説があり、「チェスの話」「チェス奇譚」と訳されている。
小説の主人公B博士は物語の途中から未知の人物として登場する。B博士がチェスに熟達するようになった状況は印象に残る。ホテルの一室に幽閉され、閉ざされた空間で自分と対局を重ねることでチェスに熟達するが、現実から離れた空想の世界に生きたことによって精神の安定を逸する男。小説には当時ナチの台頭に伴って多数派を占めつつあった、ある種の共通した特徴を備えている人々への批判的な目があり、夢のような話というよりもっと苦い現実社会の認識があった。
もしもこの小説が奇妙な話だというなら、それはホテル内への幽閉によって異常な能力を手にした男の物語という点にあるだろう。

ゲーテにはそのものずばり、Novelleという題の作品がある。先にあげたエッカーマンとの対話はこの作品について述べたものである。
エッカーマンはゲーテに言う。ある登場人物を小説の始めの方にあらかじめ出しておくのではなく、クライマックスで未知の人物として登場させる方がよいでしょう、と。ゲーテはその意見を認める。さらに、題名は「ノヴェレ」にしようと言い、そもそもノヴェレとはにわかに起こった前代未聞の出来事にほかならないのだから、と言う。
ゲーテが「novelleの本来の意味は前代未聞の出来事だ」と言ったのは、特定の小説「ノヴェレ」についての議論の流れからだった。さらに、そこでは読者にとって未知の登場人物を出す、未知の事実が明かされる、という意味合いが込められていた。
その「ノヴェレ」という小説は、このような話である。
城に住む侯爵夫人が城下町を訪れると、市場で火事が起き、その影響で見せ物小屋のライオンが逃げ出す。狩に出ていた侯爵が戻ってきて、ライオンを捕え殺そうとするが、ライオンの飼い主がそれを止める。ライオンは飼い主家族の笛と歌の力によって、おとなしくなるのだった。
ゲーテの作品は奇妙な話というより、ある事件の顛末が語られる小説であり、全体は詩的散文としての雰囲気を持っている。

novelleという題名を持った小説の中でもその内容はそれぞれ異なっていた。
シュニッツラーのTraumnovelleについて考えてみると、妻が自分の見た夢の内容を延々と語っていた。主人公が参加したパーティーには意味有り気に裸の女たちが現れるが、結局それが何を意味していたのかは明らかにされない。主人公が「さる大公の仕業ではないか」と独白するのみである。小説の描写は夢の中のように断片的なものになっている。
そのような意味において、シュニッツラーのTraumnovelleは先にあげた小説の中で一般的な意味での「奇妙な話」に近く、「奇譚」と呼ばれるにふさわしいだろう。だからTraumnovelleを「夢奇譚」と訳すのは悪くないだろう。

さて、ここまで書いてきて「田中一郎」訳のTraumnovelleはどのような題名に訳されたのだったか、見てみよう。
「夢物語」
嗚呼、本当にこの題名でよかったのだろうか?

2022年8月13日土曜日

ムージル「愛の完成」感想

(改訂しました。2023年10月29日)

目次

1.初めに

2.クラウディーネの不感症的傾向

3.自分が今の世界にいるのは偶然である

4.自分は他の世界に順応できる

5.隠されたもの、言葉で表現できないもの

6.参事官の姿の抽象性

7.参事官への欲望

8.最後の場面での会話

参考文献


1.初めに

ローベルト・ムージルの小説「愛の完成」に関して、たまたま読んだ二つの論文がともに最後の場面について思いがけない解釈をしていた。

最終的にクラウディーネと参事官の間に何が起きたのか、ムージルの記述は抽象的であいまいなためはっきりしないのだが、それにしてもMenck氏の「性行為が書かれる直前で小説は終わった」という解釈は予想外だった。

DeSocio氏の方もやはりムージルが詳細な情報を伝えていないと言い、小説の主題はクラウディーネと参事官の問題ではなく、クラウディーネと夫の問題なのだ、と結論付けている。

私はこの小説を最後まで読んで、てっきり性行為は行われたと思っていたから、先の二人の見解には意表を付かれた。

それで私はこの小説をどのように解釈していたのか、あらためて考えてみた。論文とは似てもつかない感想文のような形だけれど、書くことにしよう。


2.クラウディーネの不感症的傾向

拙訳ではクラウディーネの不感症的傾向が強調されていたことを断っておかなくてはならない。そして原文はそこまであからさまに書かれているわけではないということも。


…und deine Zärtlichkeiten fanden mich nicht mehr, und ich traute mich nicht, dich zu bitten, daß du mich lassen solltest, denn in Wirklichkeit war es ja nichts,…


古井由吉さんは「あなたの優しさはあのときあたしを見つけられなかった」「あたしと別れて」と訳しており、早坂七緒さんは「あなたの愛撫にはもはや私は応えられなかった」「私をそっとしといて」と訳している。

拙訳では「あなたから愛されても私はもう何も感じなかった」「放っておいてほしい」となっている。


Etwas Lockeres, Bewegliches und dunkel Empfindsames an einer Stelle ihres Verhältnisses, wo in der Liebe anderer Menschen nur knöchern und seelenlos das feste Traggerüst liegt.


古井由吉さんは「他者同士の愛にもとづいて、」「彼女の関係のどこか一箇所で、何かがゆるみ、浮動し、ぼんやりとものに感じやすくなっていた」、早坂七緒さんは「ほかの人々の愛にあっては、ただ骨組みだけで生気のない、頑丈な柱梁構造があるところで、彼女の関係のその箇所には何かしらほどけて、しなやかで、仄暗く感じやすいものがあった」だった。

拙訳では「他の人間にとっては愛の場面で意識もしないような固くしっかりした基礎の部分に、彼女の場合は不確かなもの、何かゆるんだもの、暗く閉ざされた感覚があるのだった。」


Sie spürte sein Gefühl von sich, das, näher als alles andere, um sie geschlossen war, mit einemmal wie eine unentrinnbare Treulosigkeit, die sie von dem Geliebten trennte, und…


古井訳「ほかの何よりも親しく彼女をつつみこむこの肉体の自己感覚を、彼女はいきなりひとつの脱れられぬ不実、愛する人から彼女を隔てる不実と感じた。」

拙訳「彼女の感覚自体は誰よりも近いはずの彼女に対して閉ざされており、不意にそのことが夫と自分を隔てる紛れもない不実であるように感じられた。」


in dem sie alles sah, was sie tat, diesen stärksten, aus ihr herausgerissenen Ausdruck der Überwältigung, diese größe vermeintliche Heraufgeholtheit und Hingegebenheit ihrer Seele,… 


古井訳「…彼女は自分のおこないのすべてを見た。このいかにも烈しい、内から力ずくでつかみだされた、情熱の圧倒の表現を。この途方もない、しかし間違いの、魂の高揚と自己放棄とを。」

拙訳「その中に彼女は自分自身の行動のすべてを、この上ない鮮明さで見るのだった。これまで彼女から奪われていた姿、快楽に翻弄される姿を、およそ彼女の心が誤って取り除き、放棄していた姿を──。」

  

このように原文を併記すると訳文の水準が分かってしまうから恥ずかしい。けれどもこの小説が性的快感から遠ざかっていた女性が最後にそれに出会う話という側面を持っていること、少なくとも拙訳はそのように訳していることは断っておくべきだろう。


3.自分が今の世界にいるのは偶然である

小説の冒頭(第一部)でクラウディーネと夫との関係が語られている。クラウディーネは夫への愛を思い描き、二人が互いにぴったりと合わさって一つとなっている(プラトンの二体一身の人間像を思い出させるような)イメージを描く。

だが小説が第二部に入ると、夫との関係に何やら影のようなものが差し始める。

クラウディーネは娘のリリーが通う寄宿学校へ向けて旅立つ。それと同時に彼女の過去が書かれる。リリーは彼女の最初の結婚のときの子であり、本当の父親は彼女がたまたま訪れた歯医者であったこと、過去の彼女はまるで浮気女のように次々男と交渉を持ったこと。

彼女はそうした過去の人生を振り返り、現在の夫との生活は単なる偶然の産物なのではないかと考えるようになる。


クラウディーネは幸福の中にあってもしばしば、これはたまたま現実となっただけであり、ほとんど偶然の産物なのだという意識に襲われることがあった。彼女はときおり、もしも今とは全く違う形の自分にふさわしい人生があるのだとしたら、と考えたりもした。


内心ではこれは単なる偶然の産物なのだ、偶然と事実という取り替え可能な覆いだけが私を彼らから隔てているのだ、という奇妙で悲しい喜びを感じていた。


そしてそのとき初めて自分の愛について、ある考えが彼女の頭に浮かんだ。それは偶然なのだ。何かの偶然によって現実となったものを、私は手放さないでいるということなのだ。


4.自分は他の世界に順応できる

クラウディーネはさらに、自分は他の男と関係を持つことも可能なのではないか、と考え始める。

そして、訪問した寄宿学校の教師たちや、過去に散歩時に見かけた男たちについて、彼らの世界の内側に閉じ込められた自分を想像する。


そして彼女は突然、彼女もまた──こうした物たちすべてと同じように──自分自身に閉じ込められ、一つの場所につながれ生きているのだと思った。私は長い年月に渡ってある決まった町の中、あるいは家の中、一つの住まい、一つの感情という、ごく狭い場所にいるのだ、と。


それはまるで、住宅の間を歩き不快感を感じていたのが、しだいにすっかり穏やかな気持ちになり、人はここで幸福になれるのかもしれないと想像し始め、そして突然自分がその当人になる瞬間が訪れたかのようだった。


私たちは、私たちのような人間は、もしかするとこんな人間たちとも一緒に暮らせるのかもしれない。


もしも私がこの男たちの一人の生活圏内に閉じ込められたとしたら、そのときなるであろう人間に私は実際になり得るのだろう。


こういった人々の中には、私にはふさわしくない、私とは他人だと思うような男が暮らしている。けれどももし私がその男にふさわしい女になっていたなら、今日そうであるような自分については何も知らなかったかもしれない。


5.隠されたもの、言葉で表現できないもの

さらにクラウディーネは自分の愛について(欲望について)、それが言葉では語れない、とらえられないものだという印象を持つようになる。

そこにフロイトの言う抑圧されたもの、意識化されることのない衝動に近いものを見出すことができるかもしれない。

あるいは、ラカンの言う「現実界」、言語の外側にある領域に近いものかもしれない。

拙訳では、ここでクラウディーネの不感症的傾向が顔を覗かせる。彼女は自分の感覚が自分へと届かないこと、自分の肉体が自分の理解の外にあることを意識するのである。


彼女はその瞬間、彼女の体はそれ自体が感じたものをまるで故郷のようにぼんやりとした障壁として覆っている気がした。彼女の感覚自体は誰よりも近いはずの彼女に対して閉ざされており、不意にそのことが夫と自分を隔てる紛れもない不実であるように感じられた。そして彼女の体が守っていた最後の貞節は、なすすべもない未知の経験が降りかかるうち、彼女の内側の不気味な最奥部でそれと反対のものへと転じたように思われるのだった。


意志の決定にことごとく逆らう謎めいた肉体の感覚に対して、彼女の内にある暗黒や虚無を覗くような戦慄を覚えるうちに、彼女は自分の体を突き放したい欲求に駆られるのだった。


6.参事官の姿の抽象性

クラウディーネは娘が通う寄宿学校がある土地に向かうのだが、列車の中で見知らぬ男と知り合いになる。

彼(以降、彼は「参事官」と呼ばれる)が何者なのかは物語が先に進んでもはっきりしない。彼は抽象的な存在にとどまり、クラウディーネの彼に対する印象は断片的にほのめかされるのみである。

やがてクラウディーネの中で徐々に彼に対する興味が高まってゆく。それまで夫への愛を語っていたのに、それからの彼女の行動は参事官から決して離れることなく、彼を中心に回り始める。まるで新しい恋人を見つけたかのように。


そしてそのとき不意に参事官の姿が頭に浮かび、すると彼女は刺激を感じた。男が自分に対して欲望を抱いていることを彼女は知っていた。さらにここで可能性との戯れでしかないことが、彼の元では実現することも。


彼女は参事官が今どこかで自分のことを待っている気がした。すでに周りの狭い視界に彼の息が満ち、近くの空気に彼の匂いがするのだった。彼女は落ち着きがなくなり帰り仕度を始めた。彼に会いに行こうとしている自分に気付き、それがどのような結果をもたらすかを考えると、たちまちその想像は彼女の体を冷たくとらえてしまった。


前に座った参事官は、彼女の体に秘かに隠された恋人像が自分に近づいたことを感じ取ったに違いない。そして彼女はすでに、彼が眠気を誘うような一本調子で話している間、おぞましい音を立てて餌を食む山羊のように絶え間なく上下に動き、消え入りそうな言葉を反芻する彼の髭の動きから目を離すことができないのだった。


7.参事官への欲望

小説はクライマックスに近づき、参事官を求めるクラウディーネの行動はますます大胆になるが、文章は抽象的なままなので読者はクラウディーネの内面を想像するしかない。

ホテルの部屋の中で、扉の向こうに立つ参事官の姿を想像しながら裸で床に四つん這いになる彼女の行動は激しい。

だがそれは客観的で冷たい描写であるともいえ、内面の情欲は書かれていないがゆえに読者の想像をかき立てるともいえる。それはまた、それまでかすかに、徐々にほのめかされていた参事官への欲望がついに表に現れたという印象にもつながるだろう。

確かに小説の記述は最後まで抽象的であいまいな記載にとどまっている。だが、その彼女の描写の変化をたどるなら、最終場面では彼女が性行為によって失われていた快感を得たことが書かれているのではないだろうか。


そのとき彼女はこの絨毯の上に身を投げ出し、犬のように鼻を鳴らしながらその不快な足跡に口をつけて興奮したいという欲求に襲われた。


彼女の体が男の体の下に横たわる姿を、小川の流れのようにあらゆる細部まではっきりと思い描いた。青ざめた自分の顔を、身を任せるときの恥ずかしい言葉を、彼女の上に覆いかぶさり、彼女を押さえ付けている男の猛禽類の翼のように逆立つ目を感じた。


彼女は自分自身の行動のすべてを、この上ない鮮明さで見るのだった。これまで彼女から奪われていた姿、快楽に翻弄される姿を、およそ彼女の心が誤って取り除き、放棄していた姿を──。


するとそのとき、彼女はぞっとするような感覚に体を震わせ、快感があらゆる障壁を乗り越えて彼女の肉体を満たしたことを感じるのだった。


8.最後の場面での会話

最後の場面ではクラウディーネの内面はほとんど描写されることなく、彼女の発言のみが書かれている。

それを読むと、彼女が参事官に夢中になっている、彼のことを愛してしまったと読めるのだが、これは誤解なのだろうか。

 

Nicht wahr, du liebst mich? Ich bin zwar kein Künstler oder Philosoph aber ein ganzer Mensch, ich glaube, ein ganzer Mensch. 


君は僕のことが好きなんだね。僕は確かに芸術家でも哲学者でもないが、立派な(ガンツァー)人間だと思うよ。


ここは訳し方が難しい箇所であり、古井由吉さんは「全的な人間」「まったき人間」と訳していた。

拙訳では参事官は「立派な人間」と言い、クラウディーネは「全体としての人間」と言っているとして、二人の解釈が異なっている風に訳した。クラウディーネは自分では参事官を部分的に好きになったことを認めるが、全体として好きだとは認めない。


Nicht so, ich meine, wie sonderbar, daß man einen gern hat, eben weil man ihn gern hat, seine Augen, seine Zunge, nicht die Worte, sondern den Klang…


「そんなことはないと思います。あの人の目が好き、あの人の話が好き、言葉ではなくて声の響きが好き、だからあの人のことが好き、というのはおかしいわ。」


一般論を話しているようで、参事官に向けてあなたの目が好き、あなたの声の響きが好き、と言っているように読める。


Nein, ich liebe, daß ich bei Ihnen bin, die Tatsache, den Zufall, daß ich bei Ihnen bin.


「そうではなくて、参事官さんのそばにいることが好き、参事官さんのそばにいるこの現実が、偶然が好きなんです。」


表面上は抵抗しているのに内面では完全に相手に屈服している、言葉では「好きではない」と言いながら内心では好きになってしまった状況に淫靡な雰囲気を感じる読者がいてもよいと思うが、どうだろう。参事官の言う通り「君は考え違いをしている。君は僕を好きになったんだ。まだそれを認められずにいるだけだ。それはまさしく本当の愛情である証しだよ。」と思う。


 Und noch einmal sprach sie: «Bitte, gehen Sie weg», sprach sie, «mir ekelt.»

  Aber er lächelte nur. Da sagte sie: «Bitte, geh weg.»


そして彼女はもう一度言った。

「お願い、離れてください……」彼女は言った。「……嫌だわ……」

けれども彼は微笑んでいるだけだった。それで彼女は言った。

「あなた、お願い。離れて。」


最後の最後にクラウディーネによる参事官の呼び方が敬称 Sie から親称 du へと変わるところも淫靡な雰囲気がある(この文はたまたま命令形なので du は出てこないけれど)。古井由吉さんは「参事官さん」という呼び方から「あなた」へ変わることでそれを表現していた(拙訳も同じやり方を踏襲しました)。

拙訳では原文にない「……」が出てきている。実は私が初めて見た原文の書籍では «Bitte, gehen Sie weg» にはピリオドもコンマもなかった。そのため「……」を使ったのだが、お読みになっている皆様は「それはおかしいのではないか」と言われるかもしれない。

 

真面目にこの作品をとらえている方々と比べて私の場合は自分勝手な解釈が入っているようだ。自分の翻訳によって作者の真意を代弁しているなどと大それたことを言うつもりもまったくない。作品のあまりにも抽象的な文章に対して(このような解釈も可能になってしまいますが)と恐る恐る言うことができるだけである。



参考文献

Anna-Lisa Menck, „heimlich, weit draußen, irgendwo…“ – zur Konzeption von Räumen und Grenzen in Robert Musils „Die Vollendung der Liebe“ (2012)

Domenic DeSocio, The Times of Their Lives: Queer and Female Modernism, 1910-1934 (2021)

早坂七緒、Kaiser/Wilkinsの英訳版からみた„Die Vollendung der Liebe“、ドイツ文化 (通号47) (1992) p25-48

ムージル作、古井由吉訳、愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑、岩波文庫(1987)

2022年7月14日木曜日

映画「転校生 さよなら あなた」感想改訂版

 思うところがあって「転校生 さよなら あなた」についての記事を全面的に書き換えました。これはほぼ自分だけのための書き直しです。


 冒頭に流れる叙情的な音楽と「A MOVIE」。尾道三部作につながる世界がそこにありました。ピアノの弾むような音形が印象的だったテーマ曲は緩やかな弦の音楽に変わり、過去を懐かしむような雰囲気を生み出していました。私はこの映画を公開されてから何年も経って初めて観たのでした。

 舞台は尾道から長野へと移り、カメラは下校時の生徒の姿を映しながら美しい景色を切り取っていました。寺の境内や塀に囲まれた狭い道や、あるいは思いがけない方向に道が通じている路地であったり。

 メイキング映像を観ると、その景色は一続きの経路を順にたどりながら撮影したのではなく、離れた場所で撮影された映像を編集でつなげたものなのでした。現実よりも美しい景色を見せる手法は尾道三部作から変わっていませんでした。

 長野に引っ越してきた一夫の家は居抜きの一軒家、一美の家は蕎麦屋でこれも一軒家、食事はちゃぶ台を囲み、テレビはチャンネルを回す古めかしい作りでした。監督は特典映像で「映画は現実を丸写しするものではない」と語っていた通りの映像でした。

 俳優たちについては、一夫の身体に入ったカズミを演じた森田直幸さんは女口調をこなしていました。前作では身体が入れ替わった後は小林聡美さんが誇張された男らしさで、尾美としのりさんが誇張された女らしさでしゃべり出し、ドタバタ感が強調されていましたが、今回は誇張のない演技でした。

 一美の身体に入ったカズオを演じた蓮佛美沙子さんは男口調も上手かったですし、「男が無理してやる女口調」も上手かったです。「〜ですことよ、オホホホ」といった具合に。それだけでなく、ベッドに横になり見舞いの人と話をするところなど、単に口調を変えているだけでなく、表情までも性別を越えた透明な雰囲気に変わっていました。前半のコメディから後半のシリアスへと変わる中間点で彼女がピアノを弾きながら歌う場面があります。よく観ると初めのうちは手の動きと音がずれているのですが、それがあとになるにつれだんだん合ってくるのでした。監督はこの場面について、バラバラだった二人の心が次第に一つになっていくという意味のことを言っていました。

 今作ではカズミの彼氏ヒロシ(厚木拓郎さん)とカズオの彼女アケミ(寺島咲さん)の二人がきわめて重要な役を担っていました。

 ヒロシはキルケゴールの「死に至る病」(について祖父が書いた本)を手に持ち、絶望しないこと、希望を持つことをカズミに伝えていました。姿形が変わってしまったカズミの心を愛し、彼女に振られながらもその奮闘は最後まで変わりませんでした。和服姿が特に凛々しかったことを申し添えておきます。

 アケミは(後半になって満を持してという感じで)尾道から病床のカズオを見舞いにやって来ました。特に病室に入ったアケミがあごの辺りでピアノを弾く指の真似をして、すぐカズオが同じ身振りで応える場面は感動しました。二人には共通の思い出があり、見た目の姿がどれほど変わろうとも、心のつながりは変わらなかったのです。前作にはなかったこの場面こそが今作の白眉であったと思わずにはいられません。

 前作では二人が家出のような形で尾道の町をあちこち移動する場面は美しいものでした。今回の二人の道行きは前作ほどではなかったといえるかもしれません。むしろ、ヒロシとアケミを含めた4人で病院から脱走する場面の方が印象に残るものでした。狭い世界に閉じ込められていた彼女たちが外の世界へ飛び出そうとしているかのようでもありました。


 身体の入れ替わりが解消し、物語がすべて決着し、最後に一夫のナレーションが入ります。過去を振り返り、一美との永遠の別れを告げるそのナレーションを聴いていると、私には今作が過去との別れ、特に監督自身の過去の作品世界との別れを意味しているように感じられてなりませんでした。

2022年4月29日金曜日

藤田龍児(東京ステーションギャラリー)

東京ステーションギャラリーの展示で藤田龍児の絵を観ました。

藤田は48歳にして病に倒れ、いったんは絵を諦めかけるのですが、やがて筆を別の手に持ち替えて再び絵を描き始めます。画風は抽象画から具象画へと変わりましたが、対象の質感の表現や画面の裏側にあるものを伝えようとする意志は変わっていませんでした。

病から復帰してからの絵を観ると、利き手でない手を使っているにもかかわらず、筆使いは少しも稚拙になっていませんでした。構図はリアルでないため素朴な絵とみなされることもあるでしょう。けれども近くに寄ってみると、木の葉の表現や家の壁の質感は紛れもなく専門家のものでした。

キャンバスに塗った下地の色が表面を削ることで少し透けて見えるように、素朴な絵には世界を作り出そうとする画家の意志があり、裏側には隠された祈りのようなものが感じられました。

2022年4月4日月曜日

トカルチュク「優しい語り手」

 オルガ・トカルチュク「優しい語り手」(小椋彩訳)を読んだ。
 冒頭の母親とのエピソードからすでに引きつけられる。
 母親はトカルチュクに「(あなたが生まれる前から)あなたを恋しがっていた」と言い、「だれかを恋しく思うなら、そのだれかは、もういる」と言った。
 その言葉は「わたし」という存在を通常の物質性を超えたところへ連れ出してくれた、時間の外、永遠のそばに置いてくれた、とトカルチュクは言う。
 存在の第一段階は想像されることであり、「わたし」という存在にも、「私」という一人称の語り手にも、物質性を超えた普遍的なものが含まれるのである。

 トカルチュクが現在の文学を取り巻く状況を見る目は厳しい。
 インターネットが普及しながら人間同士は団結でなく分断へと向かい、誰もが物語を書いていながらどの作品も似かよっており、真実が覆い隠されるか、さもなければフィクションが虚構と混同される世の中であると彼女は言う。
 しかし、彼女は未来に希望を失ってはいない。
 フィクションは読者の中で人生の経験へと変わることによって、ある意味で真実であることを彼女は宣言していた。それには言葉で表現されたものを多面的に(具体的、歴史的、象徴的、神話的に)とらえる知的能力が必要であると。
 そして彼女は物語の語り手として、「四人称」と呼ぶべきもの、自らのうちに登場人物それぞれの視点を含み、さらに各人物の視野を踏み越えることのできる、そんな語り手を想像している。
 そして物語には、人格を与える技術、共感する技術、すなわち優しさが助けになると言っている。優しさこそが、わたしたちの間の同一性、つながりに気づかせてくれるものなのだから。

2022年1月1日土曜日

映画「転校生 さよなら あなた」

 「転校生 さよなら あなた」が作られてから何年も経って、やっと私はこの映画を観たのだった。

 前作の「転校生」から今作の「転校生 さよなら あなた」まで二十五年が経ったが、二人が住んでいる家のたたずまいはあまり変わらない。だから映画の公開当時の平均的な家の様子とはいえないだろう。一美の家も一夫の家も(弘の家もそうだ)一戸建ての何部屋もある家で、部屋の照明は異常に暗く、光と闇が同居している。一美の家の食事はちゃぶ台を囲み、テレビは古めかしい。DVDの特典映像で大林監督は「映画は現実を丸写しするものではない」と語っていたが、その通りの映像になっている。

 それだけでなく、今作では映画の中で「これは現実ではなく物語である」ということがさかんに強調されるようになった。

 映画の中でカメラの画角は常に傾いており、登場人物に合わせてよく動く。それはこの映画が現実世界の客観的な描写でなく、主観的な物語であることを示している。

 さらに、一美は普段から物語を創作し空想の世界に遊ぶ子であるという設定が加えられた。今作で二人は水場に落ちて入れ替わるのだが、その水場に行く前に一美は一夫に「行こうか、わたしたちの物語の中へ」と言う。入れ替わって騒動が巻き起こると、カズオは「お前は得意かもしれないけれど、俺はこういう非現実の物語は慣れていない」と言う。いずれもこれが物語であることの強調だ。

 俳優がこれは物語であると言い出すのも変だが、セルフリメイクであり、前作のことは俳優も観客もよく知っているのだから、メタフィクションの要素が入ってきても不思議はないだろう。

 今作で「転校生」の物語を作るのはカズミとカズオの二人だけではない。ヒロシとアケミの二人がカズミとカズオの味方になる。二人は入れ替わりの状況を理解するだけでなく、その物語が壊れないように二人のために尽力する。まるで今作ではヒロシもアケミも監督の分身であり、「転校生」の物語を懸命に守ろうとしているかのようだ。


 今作では一美の体(中身はカズオ)が不治の病に侵される点が前作と違っている。だが具体的な病名が語られることはない。

 病床のカズオを見舞ったアケミがあごの辺りでピアノを弾く指の真似をすると、すぐカズオが同じ身振りで応える場面は感動する。二人には共通の思い出があり、見た目の姿がどれほど変わろうとも、心のつながりは変わることがなかった。前作にはなかったこの場面こそが今作の白眉であったと思わずにはいられない。

 その後カズオの母が「なぜ私が一美ちゃんのお見舞いを?」と言いながら、目の前の一美の姿をした子が自分の息子であることに無意識のうちに気づく場面も同じように印象に残る。

 ただし、映画全体としては、カズオが選ぶのはカズミであり、カズミが選ぶのはカズオだった。

 ヒロシはカズミに「君の心を愛している」と言うのだが、彼女から「どうしてわたしの心の中が見えるの?それはヒロシくんの中にある理想のわたしでしかない」と言われ、振られてしまう。彼は考えを改め、新しい彼女に「君のおでこは可愛い、あごの形が好きだよ」と目に見える部分を褒めるのだが、今度は彼女から「心の中を見てほしい」と言われる始末。

 そのように精神的で思弁的なつながりよりも肉体的な(それを地に足のついたと表現してもよいけれど)つながりの方を大事にする物語ではあるのだけれど、それでもアケミとカズオの精神的な絆の場面の輝きは変わらない。そしてカズミの心を愛し彼女のために尽くしたヒロシの奮闘も無駄にはならなかったと言えるだろう。


 今作での一美は不治の病に侵されるだけではなく、作品中で死んでしまう。

 その理由として、監督はDVDの特典映像で現在はそれほど抜き差しならぬ時代であること、世界中に戦争の絶えることはなく、戦争の影が身近に迫っていることをあげていた。映画の中にはそうしたことを取り込まなければならないというのだが、晩年に監督が繰り返し訴えた考えがここでも出てきている。

 けれども、観客は他の理由を考えても別にかまわないだろう。例えば、一夫はナレーションで一美の病のことを「成人に差しかかると発症する病」と表現していた。これを「大人になれない病」ととらえ、大人になれずに死ぬ一美の姿に監督の過去の作品たちを重ね合わせることもできるだろうし、今作で過去の作品たちとの別れを告げていると受け取ることもできるだろう。

 前半のコメディから後半のシリアスへと変わる中間点で蓮佛美沙子はピアノを弾きながら歌う。カズミとカズオの二人の心情に同時に寄り添うような素晴らしい歌唱だった。

 ピアノを弾いているのはカズオであり、歌っているのはカズミであり、最初はずれていた二人の演奏が最後にぴたりと合うということを監督は語っていた。だが実際に画面に映っているのは蓮佛美沙子ただ一人なのだから、彼女がカズミとカズオの二人を同時に体現し「転校生」の世界を体現していたと言ってもよいだろう。その彼女が演じる一美が死ぬということは、カズミとカズオの織りなす「転校生」の物語との別れを告げているということも言えるだろう。

 今作の全編に流れる、過去を振り返るようなノスタルジーは過去の作品世界との別れを意味しているのだと私は考えている。