NHK-FMでのクラシック音楽番組「きらクラ!」を聴いていたら、特撮の「ケテルビー」が流れた。この曲にはケテルビーの「ペルシャの市場にて」を引用している箇所があるから、クラシックの曲をオリジナルとしたポピュラー音楽のコーナーで流れた。
すごい詩だった。主人公は打ちひしがれている。本質を見出そうとしなかったせいで、裏切られたというのだ。そして女は猫であるのか、パンであるのか、タニシ(!?)であるのか、悩んでいる。
どうして女が猫であったり、パンであったり、タニシであったりできるか?それは主人公がある一人の女を、どのようにとらえていたかという比喩だろう。
愛玩の対象としてか(猫)、食事を共にする(あるいは食事を作ってくれる)対象としてか(パン)、それとも精神的なつながりに満足を見出す対象(天使=タニシの言い換え)としてか?
主人公はおそらく、その女の本質をまちがえたか、自分がどの面を重要視しているのかを自分で見誤ったのだろう。そして別れることになったのだろう。
しかし最後に主人公は立ち直る。絶望に陽だまりの暖かさを見出し、パンはまだ一斤もある!と叫ぶ。
(これは食事を作ってくれる女の比喩とはとらえない。パンを食べて元気を出し、また明日も生きるという宣言ととる。)
大槻ケンヂの絶唱に多重録音で覆いかぶさってくる男女のナレーションは詩を何十倍にも高めている。ケテルビーのメロディーラインは合唱で歌われ、賛美歌のように響く。すごい曲だった。