「私と翻訳」を改訂しました。構成が大きく変わっているわけではありませんが、文章の流れが良くなるように書き換え、自分についての説明を少し足しました。
(以下、「私と翻訳」改訂版)
かつて世田谷文学館で澁澤龍彦展が開かれたとき、彼の翻訳原稿を見たことがある。ほとんど書き直しのないきれいな原稿だった。なぜあれほど修正が少なかったのかわからない。下書きが別にあって清書したのだろうか。フランス語と日本語とでは文章の構造がまるで違うはずだが、どのように訳したのだろう。
私が趣味でドイツ語の小説の翻訳を始めたとき、初めて取り組んだのはムージルの「愛の完成」だった。ドイツ語の中でもとびきり難解な文章。すでに古井由吉さんの翻訳があるのにさらに翻訳する価値などあるのだろうか。だが私は人妻の不倫という題材を扱ったこの小説を、もっと自分好みの訳文で読むことはできないだろうかと思ってしまったのである。翻訳を出版するわけではなく、趣味として自分だけのために訳すのだから実力不足であってもかまわないだろう。初めのうちはこの名詞は4格だからこの動詞の目的語だ、などといちいち考えながら(初歩的すぎると呆れないでほしい)一歩一歩進んでいった。
締め切りもなく、自分の楽しみのために翻訳をすることは実は楽しいことである。翻訳を始めた当初は精神的に少し不安定だったが、一つの文章に徹底的に集中して考える行動は心の安定のためによかった。原文はどれほど時間が経っても変わらずにそこにあり、いつまでも待ってくれる。翻訳文を作るときは一つの文章ならそれほど長い時間がかかるわけではない。問題に対して比較的短時間のうちに自分なりの解答が得られるのは良いことだ。あとはそれを繰り返すのである。その場合も「愛の完成」のような中篇程度の長さであれば、長い作業だという感覚の中に、時間はかかるだろうがいつかは終わるという安心感がある。やがて翻訳の文章は少しずつ増えてゆき、自分の歩みを形として実感できる。自分はこれだけ進歩したのだ、と。
翻訳の文章の書き直しにはどこかオーディオ機器のセッティングにも共通するものがあると思う。プレーヤーは、アンプは何にするのか、スピーカーはどのように配置するのか、ケーブルは何を選ぶのかなど、やるべきことはたくさんある。だがそれはある意味で音のバランスを整えているようなところがある。高い物を買えば買うほど音がよくなるというものではない。低音から高音まで、柔らかい音から鋭い音まで、凹凸があるのを平らにする、バランスを整えて自分の好みの音を作っているというべきだろう。
翻訳について考えてみても、自分の好みを押し通すだけでなく、読者にとってどのような文章が分かりやすいか、どんな単語を選びどんな文章構造にするのか、あれこれ考えながら翻訳文を作ることになるだろう。原語の文章構造を考え、その意味を上位概念で把握し、それからその意味を表現するような日本語を考える。いったん上位概念に上がり、また具体的な文章に下ってくるような感じと言ったらよいだろうか。
ときどき思うのだが、現に書かれている文章よりも上のレベルで物事を考えることは、今の自分を高めようとする意識とどこかでつながっているのかもしれない。その場合の自分を高めるとは、優れた人間になるというようなものではなく、バランスが取れた状態を目指すという意味になるだろう。体の調子が整っているとか、心の安定が保たれているということ。
「愛の完成」のときは何度も推敲して何度も訳文を書き換えた。それは後から読み返すと不満を感じたからだが、自分の文章を何度も読んでいるうちに慣れてしまい感動できなくなったという理由もあったかもしれない。そう考えれば、翻訳を何度も書き換えることも、どんどん高みへと昇ってゆくようなものではなく、自分に対して新しい存在、新鮮な驚きを与えてくれる文章を求める旅のようなものになるだろう。
宮澤賢治も何度も自作を書き直す人だった。作品が完成してからも何度も改訂を加えているが(「銀河鉄道の夜」は飛び抜けて有名だが、それ以外にも改訂している作品は多い)、それはその時点で最もよい形態にするものであり、決定稿、最終稿を求めるという感じではないのだった。それは彼にとって日々の暮らしとともにあるもの、修行のようなものだったのかもしれない。
「トニオ・クレーガー」を翻訳したときは以前ほど書き直すことはなかった。翻訳の際の自分の文章がやっと固まってきた、書き直すにしてもすべてを最初から書き直すのでなく、修正にとどめることができるようになったということなのだろうか。そう考えれば、趣味で翻訳を始めてから時間が経ち、今やっとスタートラインに立ったといえるのかもしれない。
自分が進歩していると感じること、自分にとって世界が新鮮な驚きに満ちていること。翻訳という作業がそんな喜びに満ちたものであったらすばらしい。そんなことを願ってやまない。