2018年11月23日金曜日

田中一郎訳「判決」「変身」「愛の完成」「夏の日の息吹」

カフカの『判決』『変身』、ムージルの『愛の完成』『夏の日の息吹』を翻訳しました。今までそれぞれが別の記事に分かれていましたが、今回一つの記事にまとめました。

テキストデータにリンクを張りましたので興味がおありでしたらお読みください。「田中一郎訳」を表示してくだされば二次利用は自由です。非営利での利用をお願いします。改変してもかまいません(主に部分的な引用や書籍リーダーのためのデータ変換のことを想定しています)。

フランツ・カフカ

『判決』クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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『変身』クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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(底本としてFischer社の版を使用しました)



ローベルト・ムージル

『愛の完成』クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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『夏の日の息吹』(1942年、『特性のない男』より)クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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(底本としてRowohlt社の版を使用しました)



カフカ『判決』について。

『判決』における文章は、ゲオルクに都合のよいように嘘をつき、真実を隠してあいまいな記述をしていると思います。

冒頭に“Haus”という単語が出てくるのですが、これを「家」と考えて「友人が家から出る」「友人を家に戻す」という意味だとすれば、友人=兄弟という可能性もあります。(ゲオルクの分身という可能性もあるけれど。)

父が「ペテルスブルクに友人はいない」「お前の友人のことはよく知っている」という発言も、「ペテルスブルクに友人はいない(兄弟ならいる)」「お前の(言うところの)友人のことはよく知っている」と言っているとすれば、父は首尾一貫した真っ当な発言をしていることになります。

また、ゲオルクが住んでいる家は川沿いの日の当たらない家ですが、彼が貧しいのだとすれば、「店の収入は五倍になった」という景気の良い文章は疑わしくて、“schloß Geschäfte ab”という表現も「店をつぶした」という意味である可能性があります。

そして、店がつぶれたのが少し前の話だとすれば、父が「あの嫌な女」と言っているのも、現在の婚約者であるフリーダ・ブランデンフェルトではなくて、「前の婚約者」かもしれません。

ゲオルクはフリーダとの婚約の前に「どうということもないつまらない男」の婚約について手紙を書いていますが、それが彼自身のことだとすれば、「前の婚約者」が存在する可能性があります。

そう考えてくると、父が「お前についての報告はこのポケットの中だ」と言いますが、その後に続くべき文章も、「(それが公開されれば)父の面目は丸つぶれ」ではなくて「ゲオルクの面目は丸つぶれ」になります。

いずれにしても、ゲオルクは何か非難されるようなことをして、父は真っ当に彼を責めているのだという考えです。まあ彼が何をしたにせよ、彼の最大の罪は(少しふざけた言い方をすれば)、真実を読者に隠したということなのかもしれませんが。

ただし、父が最後にゲオルクに死を宣告して、ゲオルクがそれを受け入れるのは虚でしょう。ゲオルクがどのような悪いことをしたにせよ、彼の死には必然性がありません。嘘をついていた地の文章の最後にまた嘘が出て来たということです。

会話文が信用できないのではなく、地の文が信じられないというというのも変ですが、例えば体験話法のように三人称でありながら限りなく一人称に近づく文章があるように、地の文がゲオルクの都合の良いように書かれているということだと思います。



ムージル『愛の完成』について。

『愛の完成』のクラウディーネの身持ちの悪さの原因の一つには、彼女の不感症的傾向があると思います。ただし、それはかすかにほのめかされるだけですが。

例えば、夫との会話での「あなたから愛されても私はもう何も感じなかった」という発言。あるいは、「彼女の体は、それ自体が感じたものを、まるで故郷のようにぼんやりとした障壁となって覆っており、肉体自体が感じたものは、他の誰よりも近くにいる彼女のものとならなかった。」という文章。

いずれも別の意味にも解釈できるあいまいな表現ですが、このようなほのめかしは底流のように作品全体を流れ、ときどき姿を現します。

この小説では地の文だけでなく、会話文も難解な表現が使われています。例えば、彼女が出会う参事官は「まるでおとぎ話ですね。田園風景、魔法をかけられた陸の孤島、美しい女性。あらゆるものが繊細な純白の下着を身にまとうのだった…」と言います。この訳文は、車窓の外に広がる雪景色になぞらえて、クラウディーネの下着姿がほのめかされているという解釈なのですが、原文の構造をそのまま訳してもこうはなりません。

この行きずりの男に対してクラウディーネはいったん嫌悪を感じるわけですが、そう言っているそばから本当は彼に心奪われているわけで、いったん別れた後も彼のことを思い浮かべるたび、「彼に会いに行こうとしている自分に気付き、それがどのような結果をもたらすかを考えると、たちまちその想像は彼女の体を冷たくとらえてしまった。」という有様です。

やがて彼女は自分の部屋で服を脱ぎ捨てて男が来るのを待ち、男の体の下に横たわる彼女自身の姿を(快楽に翻弄される姿、これまで彼女から奪われていた姿を)想像するに至るのです。そしてその夜は何事も起こらなかったものの、次の夜についに彼に身を任せてしまうのです。

最後の場面で彼の発言に出てくる、“ganzer Mensch”という言葉は「全的な人間」「まったき人間」と訳されたこともありますが、今回は「全体として好かれる人間」と訳しました。それは、すぐ後の会話の「あの人の目が好き、声が好き、だからあの人のことが好き、というのはおかしい(=部分的に好きになるだけだ)」「君の言うそれは(全体として)好きになったという徴候だ」という文章につながると考えたものです。

ここでクラウディーネははっきりと、「あなたの目と声が好き、だけどあなたの全部が好きとは認めたくない」と言っているではありませんか。

結局のところ、冒頭から結末まで夫への愛を誓う彼女の独白の裏側には、夫との間で得られぬ絶頂感にあこがれる女の姿が隠れているわけで、そうした隠微な点もこの小説の魅力だろうと思います。

2018年11月18日日曜日

ピエール・ボナール展


国立新美術館のボナール展に行きました。
妻マルトを撮影した写真が展示されていましたが、室内で水浴する写真などはボナールの絵そのものでした。さらに妻マルトが撮影したボナールの裸体写真が展示されているのが面白いです。
ボナールはマルト以外の女性の裸体も描いていて、中でも人妻リュシエンヌを描いた「バラ色の裸婦、陰になった頭部」は、肌の色合いなどを見ると、むしろマルトを描いた絵より魅力的といえるほどでした。他には鏡をうまく使って静物画に裸体を配する「化粧台」など面白かったです。
「静物:皿と果物 あるいは桃を持った鉢」や「セーヌ川に面して開いた窓、ヴェルノンにて」は、美しい色彩があふれる魅力的な絵でした。
ボナールは一つの絵に時間をかけて描く画家でしたが、論述で観客を説得するのではなくて、その場の雰囲気を伝えることに関心がある画家だったと思います。今回のように多くの作品を一度に観るとその良さがよく分かると思えたので、良かったです。

2018年11月12日月曜日

カフカ「判決」

フランツ・カフカの「判決」を翻訳しました。
『文章の裏側に真実が隠されており、それがかすかにほのめかされている』と解釈して訳しました。
ああでもない、こうでもないと考えながら訳していると、この作品を一日で書き上げたカフカの心情からどんどん離れていく気がしなくもありませんでした。
どうかこの翻訳が皆様にとって役に立つものでありますように。

(2018年11月16日に改訂して公開しました。)

「判決」クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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2018年11月4日日曜日

藤倉大「ソラリス」


東京芸術劇場で藤倉大さんのオペラ「ソラリス」(演奏会形式)を観ました。
音楽はまるでソラリスの海のように独立して存在しており、歌の伴奏という感じではなく、ときどき大きく盛り上がって歌手の声をかき消していました。一般的なオペラの感覚とは違います。海の描写という感じはしませんでしたが、地球外の別天体という雰囲気はありました。
ハリーは脳内の記憶から作り出されたものという心理的な側面より、オリジナルかコピーかという本物/偽物の側面が強調されていました。朗唱風の歌が多い歌手の中にあって、ハリーの歌は美しい旋律が聴き取れました。他には、クリスと死んだギバリャンとが会話をする場面は印象に残りました。(彼は何者だったのだろう?)
あれだけタルコフスキーやソダーバーグを厳しく批判したレムの言葉を読んだら、レム本人の文章を丸ごと使いそうなものですが、台本はレムの原作にない文章がふんだんに使われていました。堂々と自分の世界を構築した作品でした。
藤倉さん自身の言葉によると、まず勅使川原さんが日本語で台本を書き、それを英語に訳しながら藤倉さんが作曲したとか。翻訳による変容を怖れない点が作品の根底をなしているといえそうです。

2018年10月6日土曜日

カフカ「変身」

カフカの「変身」を翻訳しました。
誰にも気兼ねすることなく、自分の思い込みのままに好き勝手に翻訳したものではありますが、もしお一人でも新鮮さや自由さを感じてくださる方がいらっしゃれば、これに勝る喜びはありません。
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カフカ「変身」クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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2018年7月22日日曜日

「歌仙と古筆」


出光美術館の「歌仙と古筆」に行きました。
三十六歌仙の肖像画や色紙を中心とする展示なのですが、印象に残ったのは生誕九百年を記念した西行の特集でした。
俵屋宗達と烏丸光廣の西行物語絵巻が解説付きで展示されていて、北面武士の佐藤義清としての姿、友の急死などを要因として、現世に空しさを感じて出家を志す姿が描かれていました。その中には娘を縁側から蹴落とす場面も含まれます。

出家者として、旅に生きた歌人として、幅の広い人生を送ったという印象があります。童子にやりこめられ(西行戻しの逸話)すごすごと引き返す姿も西行であり、崇徳院の亡霊と対等に会話をする姿(辻邦生『西行花伝』)もまた西行であり、振幅の大きさは比類がありません。また、何と「絵になる」「物語になる」人生を送った人かと思います。

2018年4月23日月曜日

プーシキン美術館展


東京都美術館『プーシキン美術館展──旅するフランス風景画』に行きました。コレクターの審美眼がはっきり現れた展覧会だったと思います。
理想的風景画の系譜の中では、ユベール・ロベールの『水に囲まれた神殿』が印象に残りました。現実の風景を元にして、神殿を廃墟に変え水の中に浮かべるという変化が加えられています。風景画が決して現実のスナップショットではないことが分かります。
ルイジ・ロワールの『パリ環状鉄道の煙(パリ郊外)』には空気感を伝える鋭い写実的表現があり、煙を画面に配置するという大胆さがありました。近代都市パリへの讃歌ともいえます。コルテスの『夜のパリ』のような、写実描写よりもパリの夜の通りの雰囲気を表現することに重点を置いた絵を見ると、この美術館がどのような作品を得意としているのか想像できます。
モネの『草上の昼食』はマネの作品の後で描かれたものですが、都市から見た郊外への憧れを示す絵として展示されていました。
セザンヌのサント=ヴィクトワール山を始めとする作品たちは、都市から見た自然への憧れです。ボナールの『夏、ダンス』は202×254cmの大作で、室内画のイメージがあった画家がこんな大きい風景画を描いていたとは思いませんでした。
この展覧会は「心躍る旅をテーマとする展覧会」として構成されていましたが、観客に筋道を立てて解説する分かりやすさに徹していたと思います。会場は比較的空いていました。

驚くべきは展覧会カタログであり、その個性的な装丁はどれだけ強調しても足りません。紙面は横長ソフトカバーに縦横罫線のノート風です。チェックボックスがあったりしてまるで研究ノートのようです。作品解説の左下には別の文字サイズ、別の文字色でアーティストプロファイルが記載されます。何ページか進むたびにコラム「画家と旅」が挿入されて画家の生涯の一場面が紹介されます。最初と最後にパリ市内やパリ近郊、美術館遠景をスナップショットで写した写真が載せられ、「とっておきブックガイド」で締めくくられます。どう見ても学術論文を集めたカタログではありません。初心者に向けて丁寧に書かれた参考書の趣がありました。

会期 2018年4月14日(土)~7月8日(日)
会場 東京都美術館 企画展示室
休室日 月曜日
※ただし、4月30日(月・休)は開室
開室時間 9:30~17:30(入室は閉室の30分前まで)
夜間開室 金曜日は9:30~20:00(入室は閉室の30分前まで)

2018年3月21日水曜日

ローベルト・ムージル「夏の日の息吹」

ローベルト・ムージルの未完に終わった小説「特性のない男」から第52章「夏の日の息吹」を翻訳しました。
1942年4月15日に亡くなったムージルがその死の直前まで書いていた絶筆です。

ちなみに「特性のない男」は近親相姦を扱った小説として紹介されることもあります。
ですがそれは初期稿として残っている「楽園の旅」の話であり(双子の兄妹アンダースとアガーテは近親相姦を犯す)、「特性のない男」の兄妹ウルリヒとアガーテは(ウルリヒが頭の中でその可能性を考える瞬間はあるものの)そのような行動を起こすことはありません。

夏の日の息吹(1942年) クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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2018年3月11日日曜日

出光美術館「色絵 Japan CUTE!」


出光美術館の「色絵 Japan CUTE!」に行きました。
今回は江戸時代の陶器が中心に展示されていますが、桃山時代の屏風画もあり、その重厚さと比べると、いかに江戸のデザインが洒脱な雰囲気に富んでいるかが分かります。

印象に残ったものとして柿右衛門の色絵粟鶉文皿がありました。
皿の見込みの角度が変わる場所に合わせて絵柄が配置されており、たっぷり取った図案の余白に必然性がありました。見事なデザインといえます。
これが中国景徳鎮窯で模写された作品が展示されていました。清時代の一時期とはいえ、中国の陶工が日本の作品を模写したことがあるとは思いもしませんでした。平皿に同様の図案が配置されていましたが、皿に深さはないので、余白に必然性がありませんでした。
そしてさらにこれがオランダデルフト窯で模写されていました。素朴な、ちょっと稚拙な感じの図柄に変わっており、もはや余白の美はどこにもないのでした。

日本や中国の風景を描いた絵などをヨーロッパの陶工が模写するとどうも変な感じになり、反対にケンタウロスなど神話の登場人物や家の紋章などを日本の陶工が制作すると変になるのですが、今回の展示ではマイセン窯のポットなど、モチーフを東洋から借りていながら見事としか言いようのないものも展示されていました。
同じ絵柄を異なる窯が絵付けした作品が数多く展示されていましたが、今回の展覧会では異なる文化を受容する力の方に焦点が当てられていたと思います。

2018年2月18日日曜日

トーマス・マン「トニオ・クレエゲル」実吉捷郎訳


トーマス・マン「トニオ・クレエゲル」岩波文庫の実吉捷郎訳はマンの作品で初めて読んだ作品だったと思う。
当時感動したことを覚えているが、今この作品を読むと、感動とは少し異なった、脱力感にも似た感情が湧きあがるのを押えられない。
この作品のクライマックス、主人公トニオがハンスやインゲと「再会」する場面は、本当に微妙な筆使いで記述されていて、本当は会っていないのに会ったように書かれているものだから、普通のドイツ人読者の中にさえ「トニオはハンスやインゲと本当に再会した」と考えている人もいるらしい。

でも僕は、「トニオはハンスやインゲと実際には再会していない」と書きたくない気がする。
僕が感動したのは、筆の力だけで不可能を可能にし、ハンスやインゲとの再会を現出させることができることにあったわけで、そこに奇跡を求める祈りにも似た感情を見いだしていたとも言えるかもしれない。
もちろん実際には、マンという作家はそんな夢の世界を愛するような感傷性を持ち合わせていない。それは彼の他の作品や、彼の人生をたどれば分かることだ。微妙な筆致を使うことで目指したのは、ひょっとすると「誤読した読者の読解力の無さを嘲笑する」ぐらいのことだったのかもしれない。
僕が当時感じていた感動が、まったくの的外れだったのかもしれない、というような思いが、今感じる無力感に通じているのだろう。なぜドイツ人のノーベル賞作家であるマンの頭にこのアイデアが生まれたのか、むしろ日本の感傷的なマイナー作家にこそふさわしいアイデアなのではなかったのか、と思う。

この作品を考えるとき、僕は心の中で「再会の奇跡」を讃えるつもりだ。それが作品の真の姿ではないことを認めつつ、あくまでも心の中でこっそりと。

2018年2月14日水曜日

「愛の完成」翻訳解説

ローベルト・ムージル「愛の完成」を翻訳しました。

ドイツ語の原文は難解なことで知られていて、それは抽象的な記述のために文章の意味が何通りにも解釈可能であり、しかもその抽象的な記述はずっと続くのでそれぞれの文章はどの意味だったのかがいつまでたっても分からないことが理由です。

霧の中を歩くような、焦点の合わない眼鏡をかけているような感覚がする原文は、「かつてドイツ語で書かれた最も難解な文章の一つ」とまで言われるほどで、ドイツ語の素人が太刀打ちできるようなものではありませんが、無謀にも翻訳してみました。

この小説には古井由吉さんの翻訳がありますが、それは抽象的な日本語を並べて意味の解釈を一通りに定めないようにしたものでした。

ドイツ語の文章が持っていた概念の広がりと、日本語の文章が持つ概念の広がりとがちょうどぴったり対応するかどうかは疑問がありますが、ともかく難解な文章を難解なまま翻訳したものでした。

これに対して拙訳は、抽象的な原文から一つの意味を推理して抜き出して、できるだけ具体的な日本語を当てたものです。概念の広がりは原文より狭くなっているのですが、とにかく意味が分からなければ話にならないという考えのもと、分かりやすい文章を目指して訳しました。

2018年2月10日土曜日

ローベルト・ムージル「愛の完成」

ローベルト・ムージル「愛の完成」を翻訳しました。
翻訳を何度も改訂しているので最新版をアップしました。(2018年2月10日)

愛の完成(全文テキストファイル) クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

2018年1月1日月曜日

ローベルト・ムージル「愛の完成」

ローベルト・ムージル「愛の完成」を翻訳しました。
(翻訳を改訂したので削除しました。)

愛の完成(全文テキストファイル)