物語は少年テルレスが親元を離れ、全寮制の学校に入学するところから始まる。彼は同じ学校の生徒である他の少年たちとさまざまな体験をするが、とりわけ重点が置かれているのは少年たちによる一人の生徒への虐待である。バジーニという生徒が周りの少年たちから精神的だけでなく肉体的にも痛めつけられるのだが、それが物語のクライマックスになっている。その光景を目にしたテルレスは目もくらむほどの強烈な性的衝動を感じるのである。
物語はテルレスがバジーニの件で退学することになって両親の元に戻るところで終わり、彼のその後の人生を描くことはない。後に彼が加虐に性的な喜びを感じる人間になったとか、同性愛者として人生を送ったなどと書かれることはない。
ムージルの筆は性の衝動がテルレスにとって未知の衝撃として襲いかかるその一瞬に着目しており、性の衝動を生活の一部として表現したり人生の中に位置づけたりしていない。さらにムージルの次作を見ても、性愛は重要な位置を占めているものの、主人公の生活を描くことに主眼は置かれていないのである。
この作品には主人公クラウディーネが夫から離れ一人で旅をする途中で行きずりの男と不倫を行うまでが書かれている。だがその文体や内容は通常の小説からはかけ離れている。抽象的で難解な、濃い霧の中を歩いているような、焦点の合わない画像を見つめるような、自分がどこにいるのか分からなくなるような文体。彼女にとって夫との関係に何も問題はないのだから、不倫を行わなければならない理由は見当たらない。しかしクラウディーネは一人で思索にふけりながら不倫を行うことは可能だと考える。
私たちは、私たちのような人間は、もしかするとこんな人間たちとも一緒に暮らせるのかもしれない。
そのとき彼女は、私は他の男のものにもなれるのかもしれない、と考えることができた。そしてそれが不実ではなく、何か究極の結婚のように感じられた。
人がしばしばどこか遠い場所に何かを見つけ、自分とは無縁のものだと思っていたのが、いざその場を離れ、その何かが自分の生活に関わる領域のある地点まで入り込んでくると、自分が以前いた場所は今は不思議なことに空っぽで、自分は昨日これやあれをしたのだと想像する必要があるというのはなぜだろうという気がした。
こういった人々の中には、私にはふさわしくない、私とは他人だと思うような男が暮らしている。けれどももし私がその男にふさわしい女になっていたなら、今日そうであるような自分については何も知らなかったかもしれない。
もしも私がこの男たちの一人の生活圏内に閉じ込められたとしたら、そのときなるであろう人間に私は実際になり得るのだろう。そしてその場合の現実の出来事とは、ある意味どうでもよいものでしかなく、脈絡もなく生じた裂け目からときおり一瞬だけ吹き出すようなものであって、その下の誰も足を踏み入れたことがなく、決して現実とはならないものの流れの、孤独で俗世を離れた優しい音は誰も聞くことはないのだろう。
任意の一秒はどれも深淵のようなものであり、人を病人に変えたり、他人に変えたり、色あせたものに変えたりするのだが、単に誰もそれに気付かないだけなのだ。
それはまるで、人が途切れることなく話しているとき、どの言葉も前の言葉が必要としていた言葉であり、また次の言葉を必要としているというふりをするのだが、それは言葉が途切れた沈黙の瞬間に何か想像もつかないふらつきを感じ、また静寂によって言葉が分断されるのが怖いというようなものだ。けれどもそれは、人のすべての行動の相互間には恐ろしい偶然性が口を開けているということに対して、ただ不安になり弱気になっているだけなのだ……
クラウディーネは性の世界を自分から離れた異質なものとして想像する。異質なものであるからこそ、それは自分には制御できないものであり、外側から自分を誘うものであるように感じるのである。
他の人間にとっては愛の場面で意識もしないような固くしっかりした基礎の部分に、彼女の場合は不確かなもの、何かゆるんだもの、暗く閉ざされた感覚があるのだった。我を忘れた興奮にあこがれる、どこか病んだ自分に対するかすかな不安が彼女にはあり、究極の絶頂感に対する予感があった。そしてそれはときおり、まるで人に知られぬ愛の苦しみが自分に定められているような予感になるのだった。
彼女はその瞬間、彼女の体はそれ自体が感じたものをまるで故郷のようにぼんやりとした障壁として覆っている気がした。彼女の感覚自体は誰よりも近いはずの彼女に対して閉ざされており、不意にそのことが夫と自分を隔てる紛れもない不実であるように感じられた。
そしてそのとき不意に参事官の姿が頭に浮かび、すると彼女は刺激を感じた。男が自分に対して欲望を抱いていることを彼女は知っていた。さらにここで可能性との戯れでしかないことが、彼の元では実現することも。
彼女は参事官が今どこかで自分のことを待っている気がした。すでに周りの狭い視界に彼の息が満ち、近くの空気に彼の匂いがするのだった。彼女は落ち着きがなくなり帰り仕度を始めた。彼に会いに行こうとしている自分に気付き、それがどのような結果をもたらすかを考えると、たちまちその想像は彼女の体を冷たくとらえてしまった。まるで何かに体をつかまれ、扉へと引きずられているような感じだった。
彼女の体が男の体の下に横たわる姿を、小川の流れのようにあらゆる細部まではっきりと思い描いた。青ざめた自分の顔を、身を任せるときの恥ずかしい言葉を、彼女の上に覆いかぶさり、彼女を押さえ付けている男の猛禽類の翼のように逆立つ目を感じた。
彼女は自分自身の行動のすべてを、この上ない鮮明さで見るのだった。これまで彼女から奪われていた姿、快楽に翻弄される姿を、およそ彼女の心が誤って取り除き、放棄していた姿を──。やがてそれは小さく、よそよそしく、他とのつながりを失い、遠く遠く離れていった。
それから参事官は彼女の部屋でそばに座っておおよそこう言った。君は僕のことが好きなんだね。僕は確かに芸術家でも哲学者でもないが、立派な(ガンツァー)人間だと思うよ。
それで彼女は答えた。「何ですか。全体としての(ガンツァー)人間というのは。」「おかしなことを聞くね。」参事官はむきになったが、彼女は言った。「そんなことはないと思います。あの人の目が好き、あの人の話が好き、言葉ではなくて声の響きが好き、だからあの人のことが好き、というのはおかしいわ。」
そして彼女はもう一度言った。
「お願い、離れてください……」彼女は言った。「……嫌だわ……」
けれども彼は微笑んでいるだけだった。それで彼女は言った。
「あなた、お願い。離れて。」
すると彼は満足の溜息をもらした。「やっと君は言ってくれたよ。愛しいかわいい夢想家さん。あなた、と。」
するとそのとき、彼女はぞっとするような感覚に体を震わせ、快感があらゆる障壁を乗り越えて彼女の肉体を満たしたことを感じるのだった。
この「愛の完成」という作品を、「一編の交響詩を聴くよう」「素材に依らずともそのものが音楽としてなっている文学」と表現して愛好したのはピアニストであって文筆家の青柳いづみこ氏だった。ムージルの研究者は難解だが密度の濃い小説としてこの作品を重要視している。インターネットを検索すればこの作品に感動した人の感想がたまに見つかる。それぞれの人がそれぞれの感想を持ってかまわないだろう。
だが私が言っておきたいのは、この「愛の完成」という作品は──難解な外見の裏側に──かなり隠微なエロティシズムが表現されているということだ。読者の皆様はどうお考えになるか、聞いてみたい気もする。