2026年9月23日水曜日

さびしんぼうについて

 映画「さびしんぼう」について語るのは難しい。
 それは映画の中で描かれていることと私が受け取ったこととが違っているためである。映画に何が描かれているかをいくら説明しても、私が何を受け取ったかは少しも明らかにならない。
 その原因の一つにさびしんぼうというキャラクターの存在がある。
 原作では主人公の前に現れる少女は素性がはっきりしている。子供時代の母親である。子供時代の写真の中の母親が人間の姿を取って動いたりしゃべったりしているのである。
 しかし映画ではさびしんぼうの人格は子供時代の母親に限定されているわけではない。
 さびしんぼうはヒロキに対して初対面から馴れ馴れしい。親しい友人のような、幼馴染のような、家族のような話し方をする。
 設定としては昔の母親なのだが、ときに母親に対して意見する独立した存在でもある。
 母親についてヒロキに「本当はあんな人じゃないんだけどね。」と言うさびしんぼうは、まるで現代に生きる人間として母親のこれまでの人生をずっと見てきたかのようだ。
 さびしんぼうは彼女自身の恋をヒロキに向けて語ることもある。勉強ができてピアノを上手に弾く少年への恋心。それは少女である彼女にとって現在に属する恋のはずなのに、遠い過去の恋を振り返っているようにも見える。
 この映画はヒロキのナレーションで始まり、ヒロキのナレーションで締めくくられるが、最後に彼はすでに大人であること、その彼が高校生時代を振り返っていたことが明かされる。映画は常に過去を振り返る視点で描かれていたのである。

 映画に出てくる大人たちは極端に戯画化されている。あまりにも馬鹿っぽく描かれ過ぎだと思えるくらいに。ヒロキはさびしんぼうとの不思議な世界を経験するが、彼の周りには大人たちの通常の世界がある。二つの世界は相容れないものであるが、大人たちは大人たちで非現実的な戯画化された世界に住んでいて、決してさびしんぼうの世界を壊そうとしていない。
 映画にはさびしんぼうの他に橘百合子という少女が登場するが、彼女は原作には存在しない。
 映画の中で百合子の人間性はほとんど描かれていない。ヒロキは百合子に一方的に片思いし、やがて彼女と出会い、そして別れるのだが、その交流はごく淡いものであり、相手のことを何も知らないまま別れたに等しいものである。
 この映画に一貫してさびしげな雰囲気が流れている──正確に言うと前半は悪ふざけと言えるほどにドタバタ描写をし、後半に真剣な雰囲気になる──のは、百合子との別れがあるからだろうか。どうもそうは思えない。彼女はヒロキの思い人でありながら、その存在はあくまでも概念としての存在にとどまっている。

 さびしんぼうとの別れは橘百合子の別れよりもはるかに重大なものとして哀切に描かれる。
 さびしんぼうは映画の中だけに存在する、映画の文法に則った存在である。彼女はシーンが変わることによって現れ、また消える。
 例えばさびしんぼうがヒロキの部屋にいて母親が来る物音がしたとき、彼女はでんぐり返しをしてカメラの画角から外れる。するとシーンが切り替わり、次のシーンで彼女は消えている。あるいはさびしんぼうが部屋のカーテンを体に巻き付けるような動きをした次の瞬間、シーンが変わって次のシーンで彼女はいなくなる。
 さびしんぼうの声は独特な声質をしている。おしとやかというよりはちょっとうるさい、押し付けがましい発声をするのだが、一つの音域の声が聞こえるだけでなく、もう一つ別の音域の声が聞こえるように感じられるのである。
 さびしんぼうと橘百合子は同じ俳優が演じているが、俳優は二人が別人格であることを意識して発声しているから二人の声は違う。百合子の声にはさびしんぼうのような二つの音域を感じない。彼女は静かで礼儀正しい発声をしており、それは最初から最後まで変わらない。
 独特な不思議な声をするのはさびしんぼうの方だ。明るく振る舞っているその裏側に悲しげな声が聞こえるような気がするのである。それはさびしんぼうの姿の裏に百合子の存在を見るよう誘っているともいえる。
 ここで一人二役が生きてくる。見た目がそっくりな二人を演じるための一人二役ではなく、似ていない二人を演じるための二役。珍しい形の一人二役である。
 監督の言葉によると、橘百合子という人物は映画の中でヒロキと母親との物語を構築する上での工夫だった(1)。
 監督は原作を映画化するに当たって、いかにして少女の体に母親の心が宿って見えるようにするかを考えた。小説とは違い映画では俳優が肉体を備えているから、二人の俳優はそのままでは同一人物に見えない。それを同一人物として描くためにはどうしたらよいかということで苦心した。
 百合子とはその過程で生み出されたキャラクターだった。 ヒロキにとって片思いの相手である百合子と母親であるさびしんぼうとを同一の俳優が演じる。それによって母親と少年と少女とを三角関係とし、少女時代の母親と少女とを同一視する視点を持つよう観客を誘っているのである。
 子供時代の母親と出会うことで、息子は母親にこれまで自分が知らなかった側面があることを知る。確かに脚本はきちんと原作の精神を伝えようとしていた。
 だが私はそのことを理解できていなかった。
 私が理解していたのは(ある意味で誤解していたのは)、この映画がさびしんぼう、ヒロキ、百合子の三角関係の物語であるということだった。そして同じ俳優が演じている二人の少女は、表面的な違い、環境や境遇の違いはあってもその本質は同じであるということだった。
 つまり私にとっては、さびしんぼうがヒロキの母親であるという設定は単なる口実であり、本当に描きたいことを隠しているとしか思えなかった。本当に描きたかったことは三人の思いがすれ違っていること、そしてその思いが最後に一瞬だけ通じ合う、叶わなかった恋が奇跡のように成就するということなのだと思っていた。
 さびしんぼうは言っていた。私はもうじきいなくなる、写真の私は十六歳の私であり、十七歳の私にはなれない、と。
 彼女の存在の期間が限られていることは原作通りであるが、さびしんぼうの期間が限られていることと、映画にしか登場しない百合子というキャラクターの存在とは、必ずしもつながってはいない。
 さびしんぼうの存在に終わりが近づくと、百合子とヒロキの関係も終わらなければならない。両者のつながりに必然性はあまりないから、むしろさびしんぼうと百合子が重なっているような感じを与えることになる。
 映画で百合子というキャラクターを創造したことは、さびしんぼうと母親とを同一視する視点だけでなく、観客が新たに別の解釈をする道を開いてしまった、と言えるだろう。

 百合子が何者であるかの情報の一部は観客に伝えられる。ヒロキと百合子の別れの場面の直前に彼女は屋台の魚屋に魚を買いに来て、二尾買おうとするが手持ちの金が足りずに一尾だけ買おうとする。魚屋は彼女のことを知っており、「お父さんのお加減はいかがでございますか」と言う。父親は病気なのかもしれない。ヒロキが声をかけると彼女は驚くが、彼と話をして、その中で自分の服が母の形見であると言う。彼女は病気の父親と二人暮らしなのかもしれない。これらの情報は観客には伝わるがヒロキには十分に伝わっていないものとして描かれている。だがおそらく現在の彼は当時の百合子の境遇を理解していることだろう。
 百合子はヒロキと別れた後、振り返ることなくそのまま急ぎ足で去るが、途中でヒロキが渡したプレゼントに付いていたリボンを落とす。有名なシーンだが、監督は「シナリオにも撮影の予定にもなかった」と証言している(2)。つまり、これは演出ではなく、偶然だと。
 けれども私には──気のせいかもしれないが──百合子が脚本や演出とは無関係に自分の意志でリボンを落としているように見える。
 この映画は脚本や演出を超えてどんなことも可能だと言っている気がしてならない。あらゆることは可能であり、あらゆる願いは叶うのだ、と。もちろん願ったそのままの形ですべてが実現するわけではないが、さびしんぼうはどんなことも可能にして見せてくれている。
 百合子に贈るためのプレゼントを用意したヒロキに対して、「(そのプレゼントは)私に?」と問い、ヒロキの「お前じゃないよ、本物のさびしんぼうの方」という答えに「(私も)そんなプレゼント貰ってみたかった」と返す言葉からは、現在のさびしんぼうが現在のヒロキのことを気にかけているように見える。最後の場面では、百合子と別れたばかりのヒロキに対して「どうだった、うまく行った?」とさびしんぼうは声をかけていた。ヒロキを応援するかのような口ぶりだった。
 私にとってこの映画は、女の子が好きな男の子のためを思って一旦は身を引くが、最後に別れを前にして心の内を打ち明ける、という構図に見えた。
 そしてすれ違う三人の想いは、二人の女の子を同じ女優が演じることによって、奇跡のように成就する様が一瞬見えたように思った。
 さびしんぼうは現実から離れた虚構の存在であり、映画の中の演じる存在であり、主人公にとって人生を振り返る視点を示してくれる存在であり、恋を応援する存在であり、最後には恋の対象としての存在である。
 百合子と別れたヒロキが自分の家に帰るために石段の前に差し掛かると、さびしんぼうが座って彼を待っている。尾道の西願寺の前に石段があることは現実であり、そこにさびしんぼうが座っていることは虚構である。だがそれは虚構を超えたもう一つの真実であるとしか思えない。
 この石段の場面はいつ見ても心を揺さぶられる。ここで何かが終わりを迎えるという厳粛な事実を予感するから。さびしんぼうとの別れは彼女の存在が消えるということであり、それはある意味で彼女の死である。死を前にした心情の告白は悲しみの瞬間でもある。
 さびしんぼうが最後に示したのは、彼女は現実の人間ではないのだから、個人を超えた抽象的な恋心だった。相手への恋心というよりは、絶対的な真実としての恋心がある、そのようなものが存在し得ることを伝えたということである。あるいは恋に限定する必要はないのかもしれない。ある絶対的なものはこの世に存在し得る、と表現した方がよいのかもしれない。
 何のことはない、私が受け取ったものとは、作者の意図を理解できない人間の単なる誤解の産物だったのか。
 さまざまな人の思いを引き受ける存在であるさびしんぼうは、そのような私の思いも引き受けてそこに存在していた。映画全体に流れる甘美な雰囲気はそこに理由があったのかもしれない。

 映画の末尾に母親が「男の子は母親に恋しているものだ」と言ったときは少し唖然とした。この映画がそんな話だったはずはない、とさえ思った。だが母親は間違っていない。原作も映画の脚本もそのように書かれていたのだから。けれども私にとってそれは違うという気がしてならなかった。
 違うというのであれば、自分が受け取ったものが何だったのかを自分で考えなければならない。例え難しくとも、少しずつであってもそれを自分なりに表現する必要があるだろう。
 この文章がその一端となり得るものでありますように。


(1)「なんだかへんて子」解説(大林宣彦) p.169
(2)「大林宣彦のa movie book尾道」p.70

2026年6月21日日曜日

カフカ「変身」の翻訳の改訂による岡上さんのnoteへの影響

 カフカ「変身」の翻訳を改訂しました。

今回の改訂にあたり、頭木弘樹さんのアメーバブログ(https://ameblo.jp/kafka-kashiragi/)の中で岡上容士さんが「「変身」において翻訳の解釈が分かれている箇所」として書いている記事、それから岡上容士さんが本人のnote(https://note.com/okanoue_kafka)で「「変身」において翻訳の解釈が分かれている箇所」として書いている記事を参考にしました。

今回の改訂に伴って岡上さんのnoteの記事の内容が一部変わる可能性がありますが、それは以下のようになると思います。(ここでは改訂した箇所すべてを挙げている訳ではなく、岡上さんの記事に影響を与えると思われる箇所のみを挙げています。)


(連載の第16回で扱われている範囲で)

「その一方で母親は」→「母親は」

「新しい調度品」→「新しい試み」


(番外編:「変身」第III部の、ある箇所の解釈について)

「父親は左の部屋では」→「父親は右を向いて」

「右の部屋では」→「左を向いて」

(注:この箇所は今回の改訂によって変わった箇所ではなく、2022年8月20日の改訂によってすでに変わっていました。)


(連載の第23回で扱われている範囲で)(連載の修正だより(7))

「十分に火を通した料理からは湯気が立ち昇っていた」→「料理からは湯気がさかんに立ち昇っていた」

(現在では岡上さんのnoteの記載は当ブログの記事に対応して変更されています。ご対応いただきありがとうございます。)

2026年3月12日木曜日

「私とベイコン 大江健三郎」

日曜美術館「私とベイコン 大江健三郎」(1980年)が再放送されたので観た。
番組に出演した大江健三郎は聞き手の問いに答える形でフランシス・ベーコンの絵や自分の小説について話していた。番組は彼の言葉をそのまま放送していた。途中でベーコンの経歴に触れる場面はあったが、カメラはほとんどの時間ずっと大江の顔を映したままなので、視聴者は彼の言葉を聴いて自分で解釈しなければならない。

大江健三郎は自分の小説とベーコンの絵画との間に共通するものを見出している。ベーコンは肖像画ばかりを描いた。多くの作品でその顔や肉体はひどく歪められ、現実の人間をそのまま描いた絵とは思えないのだが、そこには奇妙な生々しさがある。
番組によると、ベーコンは人間のモデルを使って模写したのではなく、マイブリッジなどの人体写真を見ながら絵を描いたのだった。大江はそれを「写真を描き換えることでそれまで自分の知らなかったイメージを生み出している」と解釈した。大江は言う、素人の撮った写真は時として瞬間を切り取ることで被写体の思いがけない表情を写してしまう。時に相手をムッとさせるような。それは自分がイメージする自己の姿と異なるものが生じたことを表しているのだ。

ベーコンの表現する歪められた肉体は、ある意味で正確な絵だと言うこともできる。胸に突き刺さってくるような正確さという意味で。また、人間の表面をそのまま描くのではなく、多様性やあいまいさを含んだ正確さという意味で。彼は人体を複雑なイメージに描き換えており、そこにはイメージの運動がある、と大江は言っていた。

彼は自分の小説についても語っていた。僕は平凡な人間だ、僕の知っていることをそのまま書いても面白くない。小説を一旦書いてそれを書き換える、そのときにアクシデントのように予期しないもの、自分を超えたものが生まれる。そういう手続き、仕組みを作ることが小説を書くということだ、と。予想もしないものを生み出すという点で、彼はベーコンに自分と共通するものを見出していた。

番組の中で「同時代ゲーム」について言及があった。「日曜美術館」が放送された1980年は大江45歳。久しく見ることのなかった、とっくの昔に忘れていた若々しい彼の姿がそこにあった。
番組の構成は今の時代にはあり得ないものだろう。一人の人間の言葉を集中して聴く。そんな珍しい経験ができた。

2025年9月14日日曜日

小説「理由」と映画「理由」

「理由」宮部みゆき
映画を観てから小説を読んだ。
この小説の独特の文章は映画の語り口と比較するとさらに面白い。
小説は地の文章で読者に状況を説明し、「◯◯はこう言った」に続けて登場人物の会話文が来る。だがその会話文は各人が話した言葉でもあるが、読者に対する説明の役割も担っているのだ。会話文は作者に向けて話した言葉かもしれないし、読者に向けて話しているのかもしれない。その曖昧さが映画では俳優たちのセリフまわしの違いとなって現れる。

岸部一徳はカメラ目線のまま報告書のような、感情を込めない、棒読みに近い話し方をする。おそらく演出の通りに。それは小説の会話文は作者による読者への説明の一部だと解釈するものだ。
それに対して宮﨑あおいや南田洋子はインタビュアーという個人に向けて話しているようなところが少しある。裕木奈江の場合は明らかに「一人の相手に向けて話す」話し方である。小説には人物の会話の文章として書かれているのだから無理もない。そのように俳優によって話し方が違うところが面白い。

小説では早い段階で作者が顔を出す。小糸静子の言葉は作者の質問に答える形で書かれている。小糸孝弘とは交渉の末にインタビューできた、と作者は自分の事情を書いている。ところが映画では作家と思しき人物(中江有里)が出てくるのは最後近くになってからなのだ。その姿
を映画スタッフが撮影している。小説と映画が微妙に違っている。

この小説は不動産の競売やそれにまつわる強制執行と占有屋の話が主題となっている。読者にとって馴染みのない話なので解説しなければならない。小説全体の地の文と会話文がともに読者への説明の雰囲気を帯びているのは、この主題のためではないかと思う。映画では小林稔侍が重みある演技で観客に説明していたが、小説ほど詳しく説明することはできなかった。地の文がなくセリフだけなので仕方ないのだが。

小説でインタビューでなく客観描写になっている人物は、映画でもカメラ目線の説明口調をせず客観描写になる。映画は客観描写が普通なので何も思わずそのまま見てしまうが、小説の場合は読んでいて少し詮索したくなる。(ひょっとしてこの人物にはインタビューできなかったのかな…)などと。小説は作者の語りが全編に影響を与えているからだろう。

wikipediaには宮部みゆきの言葉として「映画ですごいセリフが出てきたなと思ったら、何だ、私が書いてたわ(笑)」とある。映画で小説と同じセリフはいくつもあるが、私が一番驚いたのは小説の最後の文章がそのまま映画で字幕として表示されることだった。ここは作者が報告の文体をかなぐり捨てて個人的な思いを述べている。そしてそれは映画のトーンと合っている。映画が監督の思いによって作られていることが分かる場面だった。

ちなみに映画で印象に残った宝井姉弟(伊藤歩と細山田隆人)が夫婦と間違われる場面は、小説では彼女を知る人間が私生児を産んだ彼女への悪口の一環として「若いお父さんだこと」と言っているだけだった。篠田いずみ(多部未華子)が小糸孝弘(厚木拓郎)に興味を持つ場面は小説にはなかった。大林映画とはそういうものなのだろう。

2025年8月17日日曜日

映画「あした」について

大林宣彦監督の映画では、登場人物は不思議な状況に巻き込まれたとしてもその状況から外に出ようとはしないし、外の世界の知識を用いて状況を解決しようともしない。
彼女(彼)は状況を分析解明するのでなくそのまま受け入れる。だからこそ監督の映画には人生経験の浅い少年少女がよく似合うのだ。
登場人物が足を踏み入れる不思議な世界は彼女(彼)がまだ見ぬ人生の長い時間を一瞬に圧縮したような世界である。青春時代をすべて凝縮させたような、あるいは人が生まれて、生きて、死ぬそのすべての時間を体感するような。
だから観客は彼女(彼)が状況を受け入れたことの是非を評価する必要はない。映画に描かれているのは人生をまるごと考察する視点なのだから。
人は人生を歩みながらその外側に出ることはできない。登場人物たちは具体的な個別の状況を受け入れているのではなく、人生の歩みを受け入れているのだ。

映画「あした」を観た。
赤川次郎の原作では乗客を乗せたバスが湖に転落する。そして一ヶ月経った後、亡くなったと思われていた乗客たちから家族や恋人へメッセージが届く。メッセージを受け取った者たちはバスターミナルへと向かうのである。
映画では船が乗客を乗せたまま瀬戸内海の海に沈没し、メッセージを受け取った者たちはそれぞれの方法で(自転車、バイク、自動車、自家用船など)船着場の待合所へと向かう。映画では原作よりもそれぞれの人間がどのような葛藤を経て待合所に向かったのかが描かれていた。また、待合所へと向かう道中の時間経過(出発時はまだ昼の明るさだったのがやがて夕暮れになり夜を迎える)が丁寧に描かれていた。
赤川次郎の原作の文章は簡潔だから基本的に小説より映画の方が人物像をしっかり描き込んでいる。だが描写が簡潔だからかえって不自然さが気づかれずに済むともいえる。死者と生者の共存がどこかのんびりしたものであったり、戯画化されたヤクザが登場したり。
それが映画になると、例えばメッセージとは無関係に待合所にいた法子(高橋かおり)は、いくら子供の頃からずっと思い続けていた貢(林泰文)と偶然出会えたからといってその日のうちに他の人たちから離れた場所で裸になって彼と抱き合ったりするのは不自然に感じられてしまう。原作はヤクザの組長を殺そうと企む彼を思いとどまらせるためと書いており、読者は(そういうものかな)と思ってそのまま進んでいく。だが映画でそれを俳優が演じるのはかなり難しい。難しいのは映画でヤクザたちが待合所の人を人質に取ろうとしたり、ヤクザ同士で格闘を始めたりするのも同じで、俳優には随分負担がかかったと思うが力技で彼らは演じ切っていた。

それでも基本的に映画は人物像をしっかり描き込んでいるため原作より映画の方が魅力的だった人物は多かった。
永尾(峰岸徹)の場合。部下の直子(中江有里)は当事者ではないが当事者よりもメッセージを信じていた。彼女の言葉にこの映画のすべてが集約されている。「私信じているんです。愛していれば、きっとこんなことも起こるだろうって。」それは永尾を励ますというような域を越えており、真剣な眼差しと口調は見る者に強い印象を残す。登場時間は短いがその存在は映画全体の進むべき方向を決めていた。
沙由利(椎名ルミ)の場合。原作の陸上選手の設定は会社に所属する水泳選手に変更された。更衣室の彼女を映したカメラは裸の彼女をとらえる。そんな姿を映す必要はほとんどないのだが…それは観客に魅力を振りまきアピールするのとは正反対の、恥ずかしさや情けなさの描写に近い。人間の格好悪さを最後に魅力へと変えるのが大林映画の特徴なのだろう。船の待合所にバイクで向かった彼女は山道で転倒し怪我をする。映画の途中から彼女は「頭に包帯を巻いた女」に変わってしまう。やることなすこと上手くいかない。さらに水泳部マネージャーの小百合(洞口依子)が待合室に到着し、自分が勘違いしたことを悟る。船とともに沈んだ唐木コーチ(村田雄浩)は小百合に宛ててメッセージを送ったのであり自分は関係なかったのだ、と。それは原作も同じなのだが、映画では唐木の求愛を小百合が拒んでいたという設定が加わり、唐木はやっと来てくれた小百合のことしか眼中にないため、沙由利に対して「なぜ君が?」「…そうか…君もさゆりだったんだ…」と言ってしまう。彼女が呼ばれていないことはよりはっきりし、彼女の不憫さが強調されてしまった。そんな沙由利が願うのは1分3秒余り(彼女のおそらく100メートル自由形の記録)の間彼に見つめられることだけだった。そのとき彼女はひざまずいて彼を見上げる格好になる。これを片想いの相手に対して卑屈な態度を取ったと考えるべきではないだろう。人間の死の厳粛さに敬意を払い、ままならない自分の人生にいったん区切りをつけたことを描いているのだろう。大林映画の登場人物は具体的な状況を受け入れることで人生を受け入れているのだから。
最後に彼女は呼子丸を追って海に入った恵(宝生舞)を連れ戻すため海に飛び込む。そのとき彼女の頭の包帯は取れているのだ。桂千穂の脚本と大林監督の目論見通り最後に彼女は魅力的な人物として観客の心に残ったと思う。

映画はほぼ全編にわたって音楽が流れる。他の映画であれば音楽が過剰だと感じるくらいに。だがこの映画の場合は気にならない。これは現実を現実のまま描こうとしている映画ではないのだから。
音楽のクレジットは岩代太郎と學草太郎。岩代太郎は現在でも映画やドラマの音楽を担当する人気作曲家。學草太郎は大林監督の別名義。どちらが中心となって曲を書いているかの詮索はやめることにしよう。映画に合った素晴らしい音楽だった。
特に船が水面に上がってくる場面の音楽は忘れられない印象を残す。呼子丸は静かに、極めて静かに浮かび上がってきた。水中から上がったにしては船体が濡れていないように見えたが、これは本当に船を沈め引き上げて撮影したらしい。(意外に大きい船なんだな)と私は思った。この大きさの船が自然に浮かび上がってきたとしたらそれに対して畏敬の念を抱かずにはいられないだろう。原作のバスを船に変えたことは正解だと思った。

大林監督の数多くある作品の中で観たことのある作品の数はそれほど多くはない。DVDを所有している作品はさらに少ない。だが最も繰り返しDVDを観ている作品は今のところ「あした」である。それは群像劇の形をとっていてさまざまな視点から観ることを許しているからなのだろう。この作品を観ることができてよかった。

追記
「大林宣彦のa movie book尾道」(2001年)を読んだら、「あした」の音楽はすべてのメロディーを學草太郎=大林宣彦監督が提供し、それを岩代太郎がオーケストレーションした、と書いてあった。

2025年4月27日日曜日

「詩人たちはフアナ・ビニョッシに会いに行く」

渋谷ユーロスペースでラウラ・シタレラ監督「詩人たちはフアナ・ビニョッシに会いに行く」を観た。
詩人のフアナ・ビニョッシが亡くなり、身寄りのない彼女は遺言により知り合いの若い詩人たちに遺産管理を任す。詩人の一人メルセデス・ハルフォンは映画監督ラウラ・シタレラに遺産分配の様子を映画にするよう依頼する。
遺産管理人であるメルセデスは遺品の価値を定めなければならない。この書き込みはフアナのものなのか、他人のものか。この紙切れは捨ててもよいものか、保存するに値するものか。詩はどこまで永続するものなのか。物の時間的な価値を定めることは科学でもあり信仰でもある。
詩人たちはフアナのことをよく知っているがラウラはそれほどフアナのことを知らない。映画ではメルセデスが映っている場面にラウラの演出の声がかぶさり、ときどきラウラ自身も映っている。だが両者の関心の有り様は異なっている。インディペンデント映画であるということは自分の立ち位置も含めた自分の存在に意識的であるということなのだろうか。パンフレットによるとラウラが指示を出す場面を映すこと、メルセデスが主役として振る舞うことは、映画を制作しながら決まったことだという。
映画には生前のフアナ・ビニョッシを映した映像が挿入される。自作を朗読する彼女の映像にメルセデスとラウラの思索が重なる場面がこの映画の白眉だと思った。彼女たちは詩について、あるいは映画について語りながら、それぞれの立場からフアナの詩へと接近し、そこには確かにポエジーと呼べるものが現れていたから。「詩は決して交わらない二つのものを交差させる」これはフアナ・ビニョッシ本人の言葉である。
この映画はフアナ・ビニョッシの伝記映画ではない。メルセデスやラウラとフアナとの関係性から詩の本質に迫ろうとした映画である。関係性によって詩が生じる瞬間をとらえたともいえる。
これは観てよかった。 

2025年3月15日土曜日

アンドプレミアム「カフェと音楽。」

アンドプレミアムの2025年1月号「カフェと音楽。」は良かった。音楽家や作家などさまざまな人たちが一軒の喫茶店やカフェとCDやレコードの一枚を取り上げる。あるいは音楽にこだわるカフェを取材してその店でよくかかっている曲。店主の勧めるCDやレコードたちを紹介している。ジャズが多いのだけれど無論それだけではなく、私の知らなかった音楽が満載でとてもためになった。

雑誌の中にはビル・エヴァンスの「You Must Believe In Spring」を「破滅的に美しい」と言って誉めていた人がいた。エヴァンスの破滅的な生活を念頭に置いての言葉だったのかもしれないが、「破滅的に美しい」は音楽の形容として心に残るいい表現だった。この雑誌に載っていたわけではないが、坂本龍一の「美貌の青空」を「縁起悪いほど美しい」と形容した言葉を思い出した。あれもいい表現だった。

そういえば私はこれまでジャズを聴いてこなかった。試しに小曽根真さんのラジオをしばらく聴いていた時期があったが今となっては何も記憶に残っていない。かかった曲の一曲も、とりあげた音楽家の一人の名前すらも。そんな私がエヴァンスの「You Must Believe~」のレコードを聴いているのだからわからない。一曲目「B Minor Waltz」は初めて聴いてすぐ引き付けられた曲で特に印象に残っている。もしかするとこれからもジャズを聴く時間は少ないかもしれないけれど、それでもこうしてきっかけが生まれたのは大きい。その意味でアンドプレミアムには感謝しなくてはならない。

エヴァンスのアルバムでは「undercurrent」も挙がっていた。エヴァンスのアルバムというけれど、レコードで聴くとピアノよりもギターが主役に聴こえる。そしてギターを意識しながら聴くとどういう曲なのか前より分かった気がしてくる。ピアノの音が割れ気味とか欠点も感じるけれど、これはレコードで聴いてよかった。手に入れたのはDOL盤で普通に買えるけれど、高音質盤と噂のMobile Fidelity盤にも出会えるものなら会ってみたい。

時代がCDになる前、昔レコードを聴いていたときは特に音に愛着を感じていたということはなかった。CDの時代になってオーディオ機器のセッティングに少しはこだわり、自分の好みに音を調整できるようになって、さてそこにレコードプレーヤーを据えてみると、その音の良さが感じられるようになった。耳に馴染みのよい親しみのある音。メディアが違えば音も違うのだと考え、CDとレコードは別物と割り切って聴く。昔のカセットテープを(あるいはテープからCD-Rに録音したものを)聴くこともあるかもしれない。今になってやっとオーディオシステムが固まり音楽が好きになってきたような気がする。

坂本龍一の「美貌の青空」を彼のソロアルバムでなく大貫妙子+坂本龍一「UTAU」収録の方で聴いた。売野雅男の歌詞はおそらくヴィスコンティの「ヴェニスに死す」を題材にしているのだろう耽美的な歌詞。「縁起悪いほど美しい」とはつまりそういうことなのだった。