「世界でもっとも奇妙な数学パズル」ジュリアン・ハヴィル(著)松浦俊輔(訳)青土社
18の数学パズルが載っているが第1章からすでに面白かったので全部を読み終わる前に第1章について書く。
帽子のパズルが紹介される。
部屋に大勢の人間が集められ赤か青のどちらかの帽子を頭に載せられる。赤の帽子の数は決まっているが各人はその数を知らない。各人は他人の帽子の色を見ることはできるが自分の帽子の色を見ることはできない。鐘が一定時間おきに鳴るので自分の帽子の色が確信できた人は鐘が鳴ったら部屋から出る。
この帽子のパズルでは、部屋に外から人がやって来て「少なくとも一人は赤い帽子をかぶっている」と言う。この情報があることと、過去に鐘が鳴っても誰も席を立たなかったという情報があることで、赤い帽子をかぶっている人は自分の帽子が赤であることを確信できるのである。それは「自分が赤い帽子を見ている」と、「少なくとも一人が赤い帽子をかぶっている」とは違うためだ。
ここで共通知識と共同知識との違いが説明される。共通知識というのはオーストラリアの首都はキャンベラだというようなものだ。知っている人は知っているだろう。これに対して共同知識とは交通信号での赤色のようなものだ。誰もが赤信号で止まるという約束を知っていることを誰もが確信しているということだ。
アンデルセンの裸の王様の逸話を考えてみてもよい。王様が裸に見えるのは自分だけなのかどうか、初めのうちはみんな確信が持てない。ある子どもが「王様は何も着ていない」と言ったときにそれは共通知識となり、誰の目から見ても王様は裸であることを誰もが確信する。
アンデルセンの裸の王様の逸話を考えてみてもよい。王様が裸に見えるのは自分だけなのかどうか、初めのうちはみんな確信が持てない。ある子どもが「王様は何も着ていない」と言ったときにそれは共通知識となり、誰の目から見ても王様は裸であることを誰もが確信する。
「自分が赤い帽子を見ている(一人が赤い帽子をかぶっている)」と、「少なくとも一人が赤い帽子をかぶっている(そのことを全員が知っている)」とは違う。共通知識であるか否かの違いである。他人の目に何が見えているかを確信できることは、自分の帽子の色が何であるかを知る手がかりとなるのである。
このパズルを説明する際に数学的帰納法が使われる。実は鐘が一定時間おきに鳴ることは、自然数が離散的に増加することと対応しているのである。
もしも赤い帽子が1つだったと仮定しよう。すると誰かが青い帽子だけを見て赤い帽子を1つも見なかったなら、「少なくとも一人は赤い帽子をかぶっている」という発言の後は自分が赤い帽子をかぶっていると確信できる。その人間は次の鐘で部屋を出るはずである。では次に1つの赤い帽子を見ている人間がいたとしよう。1回目の鐘が鳴っても誰も部屋を出ないのであれば、青い帽子だけを見ている人はいない。それは赤い帽子が1つではなく2つあることを意味している。つまり自分の帽子は赤である。このようにして赤い帽子がn個の場合について考えを進めることができる。鐘が一定時間おきに鳴ることは、赤い帽子の個数を段階的に推理する上で役立っているのである。
このパズルを説明する際に数学的帰納法が使われる。実は鐘が一定時間おきに鳴ることは、自然数が離散的に増加することと対応しているのである。
もしも赤い帽子が1つだったと仮定しよう。すると誰かが青い帽子だけを見て赤い帽子を1つも見なかったなら、「少なくとも一人は赤い帽子をかぶっている」という発言の後は自分が赤い帽子をかぶっていると確信できる。その人間は次の鐘で部屋を出るはずである。では次に1つの赤い帽子を見ている人間がいたとしよう。1回目の鐘が鳴っても誰も部屋を出ないのであれば、青い帽子だけを見ている人はいない。それは赤い帽子が1つではなく2つあることを意味している。つまり自分の帽子は赤である。このようにして赤い帽子がn個の場合について考えを進めることができる。鐘が一定時間おきに鳴ることは、赤い帽子の個数を段階的に推理する上で役立っているのである。
本の中ではデイヴィッド・ヒュームが引用されていた。協調した活動に参加するためには、参加者全員がお互いから予測される行動について知っていなければならない、というものである。ヒュームが帽子のパズルのことを念頭に置いていたはずはないが、ともかくそういうことである。