2023年9月25日月曜日

Consequential Strangers

「Consequential Strangers」という本をロバート キャンベルさんが紹介していた。キャンベルさんの訳した題名は「愛おしい他人たち」。我々の周りにいるさほど重要でない他人、例えば買い物のときに会話を交わしたり散歩のときに公園でいつも見かけたりする人々が、実は我々の幸福感に影響を与えているという本だった。そういった人々は家族や親友などとは違って、小説の登場人物でいえば端役のような存在だけれど、そういった人々にスポットライトを当てている。
なぜ彼らが幸福感に影響を与えるかというと、彼らは我々が日々抱えている問題から遠い存在であることが好都合なのだった。自分の問題から一旦離れさせてくれる存在、自分を客観視して問題解決のヒントを得る上で都合のよい存在なのである。

話は変わるが、随筆集の「あなたの暮らしを教えてください3 居心地のいい場所へ」を読んでいたら、ドナルド キーンさんの文章が載っていた。日本の好きなところとして店の店員の心遣いをあげている。ニューヨークのスーパーマーケット、銀行、郵便局の窓口の人々と比べて態度に優しさがあり、それは好ましいことである、と。そのような文章を読むと、きっと日本の店員は優しい雰囲気で客の心を暖かくしているのだろうな、という気がする。
同じ本に千葉すずさんの文章が載っていた。ロサンゼルスのレンタカー店に行ったところ、店員と客が笑顔で話し込んでいて行列がなかなか進まない。客の一人は筆者の借りようとしたレンタカーが壊れている車だと教えてくれる。やっとのことで正常な車を借りると、その客は笑みを浮かべて「よい旅を」と言うのだった。世の中に間違った人がいても、人生に失敗があっても、最終的に修正できればいいじゃないか、という精神がそこにはあった。

ふと思ったのは、アメリカと日本では「Consequential Strangers」のあり方が違うのではないかということだった。親しくない他人との接し方は国によって違う。「Consequential Strangers」の作者が想定していたのは、アメリカ人によくあるような態度や接し方だったのかもしれない。
日本語訳が出ていないので私は英語の原文を読んだ。読書はなかなか進まないし、はたして内容を理解できているのか不安にかられる。例えばキャンベルさんのようなアメリカ社会も日本社会もよく知っている人に、それぞれの社会における他人とのつき合い方を解説してもらいながら読みたい気がした。

2023年7月16日日曜日

「トニオ・クレーガー」翻訳のおぼえがき

この作品を日本語に訳すにあたって、Bürgerという語をどう訳すかは常に問題になる。リザヴェータはトニオのことをBürgerと形容し、トニオはその言葉にショックを受けるという、作品中での重要な単語である。
ここでのBürgerは芸術家とは対照的な存在、芸術家と対立する存在として用いられており、実吉訳、高橋訳は「俗人」、浅井訳は「一般人」、平野訳は「普通の人」だった。
日本人の研究者の論文を読むと、「市民」という訳語を使う人が多くいる。芸術家に相対する存在として「市民」を選ぶのは少し違和感があるが、社会を構成する人間として用いる文脈では「市民」というのは使いやすい語だと思う。
拙訳では「一般市民」「市民」を使った。Bürgerの直訳に近い単語であり、芸術家の対義語としては少し違和感を感じるかもしれないが、これはこれで許してほしい。

もう一つこの作品で問題になる単語として、das Lebenがある。トニオがdas Lebenへの愛を告白する場面はこの作品の要なのだから本当に重要な単語であるわけだが、訳語を選ぶのは本当に難しい。
実吉訳は「人生」「生活」だった。高橋訳、浅井訳、平野訳は「人生」。「私は人生を愛している」という告白になるわけだ。
「人生」という単語には、人生という時間を過ごした一人の人間というニュアンスも含まれるかもしれないが、一人の人間の過ごした時間のようなニュアンスもまた含まれている。この作品でのdas Lebenは、時間というよりは「生き生きとした人間」もしくは「人間の生き生きとした性質」のような意味で使われている気がする。もしそうならば「人生」という語は少し使いづらい。
研究者たちの中には生という訳語を使い、括弧付きで「生」と書く人がいる。時間というよりは人間の性質に重きをおいて訳した場合の語だと思う。
拙訳では山括弧付きで〈生〉もしくは山括弧なしで生という訳語を使った。「〈生〉というものは生き続ける」「〈生〉は性懲りもなく罪を重ねる」「〈生〉の側の人間が芸術に挑戦しようとするくらい哀れな光景はない」のような訳し方であり、「時間」とはニュアンスが異なる訳し方である。

〈生〉あるいは「市民」という訳語を選ぶに当たって、他の誰よりも辻邦生の存在が大きかった。彼は「トニオ・クレーガー」の翻訳を残しているわけではないが、自他ともに認めるマンへの愛で世に知られた人だった。彼には「トーマス・マン」というマンの作品についての評論をまとめた著作がある。その中で「生」と「市民」の側に属する人間に対して、「精神」と「芸術」の側に属する人間が対比されている。彼は「生」と「市民」という語を使っていた。
「生」や「市民」という訳語を使う人は他にもいるが、僕がこの訳語を選ぶ際に最初に頭に浮かんだのは辻邦生だったことを書いておきたい。

この作品では、後半のデンマークのオールスゴーでトニオが会ったのはハンスとインゲボルクだったのか、それとも彼らとは異なる別人だったのかということが問題になる。
二人が現れたと書いてある箇所の原文はイタリック体になっている。イタリック体は強調の場合だけでなく「言葉を文字通り受け取ってはいけない」ときにも用いられるとのこと。マンは後でもこの二人がハンスやインゲボルクとは別人であることを匂わせる文章を書いているが、別人であることを強調するのではなく、あくまであいまいな書き方をしている。
いずれにしても強調しておきたいことは、僕にとってこの作品の素晴らしさは、「トニオがハンスとインゲボルクに似た人に会った」点にあるのではない(似た人に会ったからそれが何だというのだろう)。ほとんど不可能な、奇跡のような出来事が筆の力によって可能となる、「インゲボルクに再会することは可能だ」ということの驚きにある。クライマックスではインゲボルク、マグダレーナ、トニオの三人の持つ意味、三人の本質が明らかになるのだが、それはその瞬間に真実が姿を現したとも言え、実際に会ったこととほとんど変わりない。

だからこの作品を訳すときには、作者にとっての真実が表現された作品だと考えて訳した。読者の皆様はどのようにお感じになるだろうか。

2023年7月9日日曜日

トーマス・マン「トニオ・クレーガー」

「トニオ・クレーガー」クリエイティブ・コモンズ・ライセンス


トーマス・マンの「トニオ・クレーガー」を翻訳しました。

かつて夢中になって読み、それからしばらくの間心が離れてしまった小説ですが、今回読んでみてやはり好きな作品だということがわかりました。訳してみたら思っていたよりも主人公に傲慢な印象を受けませんでした。もしも興味がおありでしたらぜひお読みください。

「田中一郎訳」を表示してくだされば二次利用は自由です。非営利での利用をお願いします。リンク先はテキストデータですがルビや傍点の処理に青空文庫の書式を使っています。


本文中ではZigeunerにジプシーという訳語を当てています。差別的な意味で用いられる単語であり、作品において登場人物も差別的な意味でこの語を用いていますが、本作品が書かれた時代背景を考慮して本文を変えることなく訳語を当てました。訳者に差別を助長する意図はありません。ご理解下さい。

2023年1月19日木曜日

ルパン三世1stシリーズの音楽から

テレビアニメのルパン三世1stシリーズ(旧ルパン)はとにかく音楽が良かった。物語の単なる伴奏にとどまらず、劇中に流れる音楽をそれだけ取り出して聴いても心躍るような素晴らしさがあった。

テレビ放送の音源を集めた「ルパン三世'71MEトラックス」というCDを聴いた。放送時に製作された音楽が効果音と一緒に収録されている。新規に演奏したものではなく、番組を観たときに聴いていたそのままだからうれしい。ブリッジのような数秒の長さの曲も丁寧に収録してくれていて有り難い。
高島幹雄さんが解説を担当している。それによると、音楽を担当した山下毅雄さんはルパン役の山田康雄さんとは彼がテアトル・エコーに在籍していたころからの知り合いだったという。山下氏にとって、山田氏のイメージはロックであり、だからルパン三世の音楽は山田氏のイメージで作られたものだった。
アクションシーンで流れる音楽はごく短いフレーズの積み重ねで作られていて、全体として調和のとれた世界を構築するという音楽ではなく、それは例えば警察の予想もしない方法で宝石を盗むような敵の裏をかくルパンの世界に一致するものだった。
旧ルパンの音楽を聴いていると、あらためて僕の中でその音楽が占める割合は大きかったのだな、と思う。
AFRO "LUPIN'68" TV ORIGINAL

話はルパン三世やアニメ音楽一般に限らず、その後クラシック音楽を聴くようになってからも、フレーズとフレーズをつなぐ経過句のような、曲の中でそこだけ独立した世界を作るような曲想が好きになることがあった。
旧ルパンの音楽とは音楽としては似てもつかないけれど、独立した世界という意味では例えばモーツァルトの「ジュノーム」のメヌエットや、あるいは経過句という意味ではピアノ協奏曲第23番の第3楽章の中間部などは僕の中で印象に残っている。
全体の構成はまったく似ていなくても、細部の現れ方だけを取り出せば意外なものに共通点が見えてくるかもしれない。
ピアノ協奏曲第9番第3楽章(25:38~)
ピアノ協奏曲第23番第3楽章(21:17~)

音楽に限らない話をするなら、小説の中で急に文体が変わり、文章の調子がそれまでと変わることがある。
ドイツ語の小説ではムージルの「愛の完成」やカフカの「判決」などはそのような作品として印象に残っている。それまでは一つの文章が長かったのに、クライマックスになると文が短くなり、たたみかけるような調子になっていた。
「愛の完成」では参事官の誘惑に屈するまいと抵抗していた主人公が突然堰を切ったように行動へと駆り立てられていた。「判決」では弱気な態度に見えた父親が豹変し、すると主人公は家を出て川にかかる橋まで走り欄干を飛び越えていた。
そうした小説のドイツ語を日本語に翻訳してみたことがあるが、原文が短いとき思い切り訳文を短くしていた。そんなときは心の中で、作者が急に調子を変えたとしてもついていこう、作者が急加速したとしても遅れることなくついていこう、という気になっている。どうやら僕は訳文を考えながら、自分の文章を加速させて文章の調子が変わることを楽しんでいるようだ。

そういえば子どもの頃にシャーロック・ホームズをよく読んでいた。名探偵が登場する短篇だからまわりくどくなく、物語は一気に真相に到達する。物語の末尾にホームズが事件を要約する一言を述べたり、古人のことわざを引用して鮮やかに締めくくられることも多い。ホームズ以外にも探偵小説や推理小説、ミステリと呼ばれるジャンルへの偏愛はずっと続いている。一気に真相にたどり着く物語、何か急に流れが変わるという点に惹かれているのかもしれない。

だから(あくまで仮の話だが)自分で小説を書くとしたら、推理小説であったとしても殺人事件が起きる必要はなく、名探偵が出てくる必要もないだろう。「日常の謎」であってもよいだろう。けれども物語には中心となる一点があって、主人公はその一点についてあれこれ思索をめぐらすことは必要かもしれない。そして文体によって何かを語っている小説。はたしてそんな小説を書くことは可能だろうか。

2022年12月18日日曜日

葛西臨海水族園に行った。


葛西臨海水族園に行くのは実は初めてだった。ぐるっとパスで入場できることがわかって行ったのだが、今回行ってみていつかまた行きたいと思った。

京葉線の葛西臨海公園駅で電車を降りた。目の前に公園に向うメインストリートが延びている。道は広々としており、朝の日を浴びて晴れやかな気分で水族園に向かった。しばらく進んで左に曲がるとその先に水族園がある。建物だけの「水族館」ではなく、屋外の展示や周りの散策路を含めて「水族園」と呼んでいるのだ。

その散策路は水族園から帰るときに通った。道の両脇は芝生が整備され、さらにその向こうには木が並んで植えられていた。芝生の上はきっと暖かい季節には家族連れのピクニックでにぎわうのだろう。

水族園にぐるっとパスで入るときは、管理室をインターホンで呼び出して、ぐるっとパスを見せ、すると入場券のようなものを渡される。それを入り口で渡して入る仕組みになっていた。ぐるっとパスで入場する人が多かったらどうするのだろう、混雑して時間がかかりそうだな、と思いながら入った。

建物内の展示には、入場者の興味を引くような配慮が感じられた。水槽の上から係員の手が伸びてきて餌を与える。餌を食べるところを見せているわけだ。展示されているのは常に動いている魚ばかりではない。深海の生物たちはじっとしていることもある。すると今度は係員が棒のようなもので触れて動くよう促していた。
屋外に出るとペンギンの展示があった。横に長い水槽は水上の様子も水中の様子も見ることができるようになっていた。水の中を飛ぶように泳いでみたり、水中で糞をしてみたり。

さりげなく学問的な展示もされていたことが印象に残った。
屋外に潮だまりの展示があり、本物の海のように人工的な波を起こして潮だまりを再現していた。脇の水槽では生き物に触れることができた。
建物の中には世界の色々な海の様子が展示があり、どの海域にどのような魚が棲んでいるかを教えてくれた。さらにまた、クラゲやプランクトンなどについて学問的な内容を楽しく伝えようとするコーナーがあった。
マグロの回遊展示で有名な水族園だが、それだけでない展示全体に魅力を感じることができた。よかったと思う。


2022年12月3日土曜日

牧野信一「爪」「闘戦勝仏」「月下のマラソン」

 wikipediaの牧野信一の項を見ると、デビュー作として「爪」と「闘戦勝仏」の2作が候補としてあげられ、どちらをデビュー作とするかについては複雑な問題があると書いてある。「爪」の初出は1919年(大正8年)12月発行。「闘戦勝仏」の初出は1920年(大正9年)10月発行。
 ところが牧野は作家として活動する前に時事新報社の雑誌「少年」「少女」の編集の仕事をしており、そのとき雑誌にいくつかの作品を寄稿しているのだ。
 例えばその中の「月下のマラソン」の初出は1919年(大正8年)9月発行で、「爪」や「闘戦勝仏」より早い。にもかかわらず「月下~」がデビュー作とみなされないのは、正式な作家活動以前の作品と考えられているからだろう。
 だがそれにしても「月下のマラソン」は強い印象を残す。
 中学生の主人公は夜間に開催される学校対抗のマラソン大会に参加する。応援の人垣がとだえ、急に静かになったコースを走りながら思索にふける。空に浮かぶ月を見て事故で亡くなった友人を思う。友人は遠い世界に行ったのではない、常に月のように自分のことを見ている、どれほど遠くまで走っても自分についてきてくれる、と。
 少年少女のために書かれた作品には、夢見るような美しさがあった。

 牧野信一には「ギリシャ牧野」と呼ばれる時期がある。例えば「ゼーロン」であれば小田原駅から足柄峠に向けての旅行がストア学派の吟遊詩人の旅に変わるように、現実と空想が二重写しになり、日常の風景が楽園《アルカディア》と変化する作品が多く書かれた時期である。
 重苦しい血縁関係に閉じこめられるような私小説を書いていた作家が、幻想の翼を得て天高く羽ばたくような作品を書くようになった時期だった。
 では「ギリシャ牧野」時代とは、まぐれのようなもの、ただの徒花だったのだろうか。
 少年少女のために書かれた小説を読んでいると、そんなことはない、と思わせてくれる。子どもに向けられた美しい空想、幻想性は「ギリシャ牧野」時代の作品たちの萌芽という感じがする。
 「ギリシャ牧野」の作品たちは、彼が小説を書き始めた若き日の作品たちとつながっている。そう思えたことはうれしかった。
 デビュー作がどちらの作品であるかはどうでもよい。二人のライバルが競い合うように並んでいるかのようなその後ろで、自らの存在をひけらかすことなくたたずんでいるもう一人の姿。私はそんな場面をふと想像してしまった。正式なデビュー作とは認められなくても、牧野信一はこの「月下のマラソン」という作品を世に残した、その方が大事なことだ。
 自分の中だけで満足を感じながら、今まで読んでいなかった「闘戦勝仏」はどんな作品なのか、読んでみた。
 玄奘と悟空たちの旅を書いた物語だった。
 彼らは旅の途中で朱紫という国に着くのだが、景色も人々の容姿も優しく美しい。その中にあってこの世のものとは思えぬほど美麗な王と王妃のために悟空は奮闘する。
 どこかユルスナールの「東方綺譚」を連想させるような、幻想小説という形容がぴったりの作品だった。
 牧野信一の他の小説とは全く毛色が異なっており、ここにも幻想的な作品が存在したのか、と思いながら最後の行にたどり着くと、そこに書かれていた文字。
 (七年八月作)
 大正7年(1918年)8月ということだろうか。発表が後になっただけで、書かれたのはもっと早かったということだろうか。発表順でなく書かれた順に並べるとするならこれが最初の作となるのかもしれない。
 そうすると、デビュー作を「爪」と「闘戦勝仏」の2つで争っているのは、発表が先か制作が先かという点でだったのか。
 私が頭の中で思い描いた「二人のライバルの影に隠れる一人の姿」というのはあまりにもピントが外れた物の見方のような気がしてきて、もう一度頭の中で作品たちの姿を想像してみた。
 「爪」は私小説として、「闘戦勝仏」は幻想小説として、「月下のマラソン」は現実と空想が二重写しになった小説としての姿でそこに現れた。さらに「ゼーロン」の最後の場面で作者と銅像と父とゼーロンが四人組の踊り(カドリール)を踊るように、それぞれの作品が手を取り合ってたたずんでいるように思えてきた。そしてそんな彼らの姿を月の光が優しく包んでいるような気がするのだった。

2022年11月5日土曜日

シュニッツラーのTraumnovelleという小説のタイトルを何と訳すか?

シュニッツラーという作家に“Traumnovelle”という小説があるが、この作品の題名を何と訳すべきか迷ってしまった。Traumは「夢」でよいと思うのだが、問題はnovelleの方で、題名としてふさわしいのはどのような訳語だろう。すでに何種類かの日本語訳が出ているから、それを参考にしてみよう。先人たちは題名をどう訳しているだろうか。

調べてみると、出版されている書物ではいくつかの異なる題名が存在することがわかった。
岩波文庫の池内紀・武村知子訳では「夢小説」となっている。
ハヤカワ文庫の尾崎宏次訳では「夢がたり」となっている。直訳すれば「夢小説」になることを認めつつ、編集者とも相談の上で「夢がたり」に決めたとのこと。
文春文庫の池田香代子訳では「夢奇譚」となっている。
さまざまな題名に訳されているが、訳者たちはなぜその題名にしたのかを明確に、簡単に分かるように書いてくれてはいなかった。

辞書でnovelleという単語を調べてみよう。
独和辞典によるとnovelleは「ノヴェレ、短編小説、短話」である(小学館独和大辞典)。
独独辞典によるとnovelleは「短篇あるいは中篇の長さを持ち、単独の事件を扱い、結末に向けて直線的な筋の経過をたどる物語」とある(Duden Wissensnetz Deutsche Sprache)。
ちなみに英語のnovelは長篇小説のことを指す(短篇小説はshort storyと呼ばれる)から、ドイツ語のnovelleとは異なっている。また英語のnovelには「新しい」という意味もある。だから人が小説のnovelと「新しい」という概念とを結びつけたとしてもそれはおかしなことではないだろう。
ゲーテがnovelleという単語について「前代未聞の出来事にほかならない」と言っている(エッカーマンの「ゲーテとの対話」による)。ではシュニッツラーのTraumnovelleという小説の内容を見てみよう。どのような内容だろうか。

主人公はフリードリーンという医師であり、妻と幼い娘がいる。妻との仲は良好だが、身の回りにいる何人かの女に戯れのような浮気心を抱いている。ある夜、彼は秘密のパーティーに参加する。初めは舞踏会のように思われたが、途中から大勢の裸の女たちが出てくる夢の世界のような奇妙なパーティーだった。一人の女と会話を交わしたところで彼は部外者であることがばれて追い出される。朝帰りをした彼は妻から彼女の見た夢の話を聞かされる。とりとめのない、それでいて彼女の心の奥にある浮気願望を感じさせる夢だった。彼は腹を立て仕返しをしようとするが、浮気相手ともくろんでいた女たちは次々と彼の元を去る。パーティーで出会った女と思われる女が自殺したことを新聞で知る。病院の死体置き場を訪れて確かめようとするが、当の女かどうか判断できない。主人公は浮気心を捨て、妻と誠意をもって向き合うことを決心するのだった。

Traumnovelle の訳語の候補として、池田香代子訳の「夢奇譚」を考えてみよう。
ゲーテによるとnovelleとは「前代未聞の出来事」であるが、「珍しい話」「珍奇な話」「奇妙な話」と言われることがある。novelleという題名を持つ小説にもさまざまな内容が含まれるということだろう。
だがそのような中においても奇妙な雰囲気の小説であれば、「奇譚」という語を使ってもよいと思われる。奇妙な話と呼ばれるための条件としていくつかあるだろうが、夢のような不思議な話、日常と異なる論理が支配する話などは奇妙な話と呼んでよいだろう。
もう少し題名にnovelleという語を含む小説を考えてみよう。シュニッツラーの他にもツヴァイクやゲーテの作品にnovelleを含む題名の作品があるから、それらを見てみよう。

ツヴァイクにはSchachnovelleという小説があり、「チェスの話」「チェス奇譚」と訳されている。
小説の主人公B博士は物語の途中から未知の人物として登場する。B博士がチェスに熟達するようになった状況は印象に残る。ホテルの一室に幽閉され、閉ざされた空間で自分と対局を重ねることでチェスに熟達するが、現実から離れた空想の世界に生きたことによって精神の安定を逸する男。小説には当時ナチの台頭に伴って多数派を占めつつあった、ある種の共通した特徴を備えている人々への批判的な目があり、夢のような話というよりもっと苦い現実社会の認識があった。
もしもこの小説が奇妙な話だというなら、それはホテル内への幽閉によって異常な能力を手にした男の物語という点にあるだろう。

ゲーテにはそのものずばり、Novelleという題の作品がある。先にあげたエッカーマンとの対話はこの作品について述べたものである。
エッカーマンはゲーテに言う。ある登場人物を小説の始めの方にあらかじめ出しておくのではなく、クライマックスで未知の人物として登場させる方がよいでしょう、と。ゲーテはその意見を認める。さらに、題名は「ノヴェレ」にしようと言い、そもそもノヴェレとはにわかに起こった前代未聞の出来事にほかならないのだから、と言う。
ゲーテが「novelleの本来の意味は前代未聞の出来事だ」と言ったのは、特定の小説「ノヴェレ」についての議論の流れからだった。さらに、そこでは読者にとって未知の登場人物を出す、未知の事実が明かされる、という意味合いが込められていた。
その「ノヴェレ」という小説は、このような話である。
城に住む侯爵夫人が城下町を訪れると、市場で火事が起き、その影響で見せ物小屋のライオンが逃げ出す。狩に出ていた侯爵が戻ってきて、ライオンを捕え殺そうとするが、ライオンの飼い主がそれを止める。ライオンは飼い主家族の笛と歌の力によって、おとなしくなるのだった。
ゲーテの作品は奇妙な話というより、ある事件の顛末が語られる小説であり、全体は詩的散文としての雰囲気を持っている。

novelleという題名を持った小説の中でもその内容はそれぞれ異なっていた。
シュニッツラーのTraumnovelleについて考えてみると、妻が自分の見た夢の内容を延々と語っていた。主人公が参加したパーティーには意味有り気に裸の女たちが現れるが、結局それが何を意味していたのかは明らかにされない。主人公が「さる大公の仕業ではないか」と独白するのみである。小説の描写は夢の中のように断片的なものになっている。
そのような意味において、シュニッツラーのTraumnovelleは先にあげた小説の中で一般的な意味での「奇妙な話」に近く、「奇譚」と呼ばれるにふさわしいだろう。だからTraumnovelleを「夢奇譚」と訳すのは悪くないだろう。

さて、ここまで書いてきて「田中一郎」訳のTraumnovelleはどのような題名に訳されたのだったか、見てみよう。
「夢物語」
嗚呼、本当にこの題名でよかったのだろうか?