2022年4月29日金曜日

藤田龍児(東京ステーションギャラリー)

東京ステーションギャラリーの展示で藤田龍児の絵を観ました。

藤田は48歳にして病に倒れ、いったんは絵を諦めかけるのですが、やがて筆を別の手に持ち替えて再び絵を描き始めます。画風は抽象画から具象画へと変わりましたが、対象の質感の表現や画面の裏側にあるものを伝えようとする意志は変わっていませんでした。

病から復帰してからの絵を観ると、利き手でない手を使っているにもかかわらず、筆使いは少しも稚拙になっていませんでした。構図はリアルでないため素朴な絵とみなされることもあるでしょう。けれども近くに寄ってみると、木の葉の表現や家の壁の質感は紛れもなく専門家のものでした。

キャンバスに塗った下地の色が表面を削ることで少し透けて見えるように、素朴な絵には世界を作り出そうとする画家の意志があり、裏側には隠された祈りのようなものが感じられました。

2022年4月4日月曜日

トカルチュク「優しい語り手」

 オルガ・トカルチュク「優しい語り手」(小椋彩訳)を読んだ。
 冒頭の母親とのエピソードからすでに引きつけられる。
 母親はトカルチュクに「(あなたが生まれる前から)あなたを恋しがっていた」と言い、「だれかを恋しく思うなら、そのだれかは、もういる」と言った。
 その言葉は「わたし」という存在を通常の物質性を超えたところへ連れ出してくれた、時間の外、永遠のそばに置いてくれた、とトカルチュクは言う。
 存在の第一段階は想像されることであり、「わたし」という存在にも、「私」という一人称の語り手にも、物質性を超えた普遍的なものが含まれるのである。

 トカルチュクが現在の文学を取り巻く状況を見る目は厳しい。
 インターネットが普及しながら人間同士は団結でなく分断へと向かい、誰もが物語を書いていながらどの作品も似かよっており、真実が覆い隠されるか、さもなければフィクションが虚構と混同される世の中であると彼女は言う。
 しかし、彼女は未来に希望を失ってはいない。
 フィクションは読者の中で人生の経験へと変わることによって、ある意味で真実であることを彼女は宣言していた。それには言葉で表現されたものを多面的に(具体的、歴史的、象徴的、神話的に)とらえる知的能力が必要であると。
 そして彼女は物語の語り手として、「四人称」と呼ぶべきもの、自らのうちに登場人物それぞれの視点を含み、さらに各人物の視野を踏み越えることのできる、そんな語り手を想像している。
 そして物語には、人格を与える技術、共感する技術、すなわち優しさが助けになると言っている。優しさこそが、わたしたちの間の同一性、つながりに気づかせてくれるものなのだから。

2022年1月1日土曜日

映画「転校生 さよなら あなた」

 「転校生 さよなら あなた」が作られてから何年も経って、やっと私はこの映画を観たのだった。

 前作の「転校生」から今作の「転校生 さよなら あなた」まで二十五年が経ったが、二人が住んでいる家のたたずまいはあまり変わらない。だから映画の公開当時の平均的な家の様子とはいえないだろう。一美の家も一夫の家も(弘の家もそうだ)一戸建ての何部屋もある家で、部屋の照明は異常に暗く、光と闇が同居している。一美の家の食事はちゃぶ台を囲み、テレビは古めかしい。DVDの特典映像で大林監督は「映画は現実を丸写しするものではない」と語っていたが、その通りの映像になっている。

 それだけでなく、今作では映画の中で「これは現実ではなく物語である」ということがさかんに強調されるようになった。

 映画の中でカメラの画角は常に傾いており、登場人物に合わせてよく動く。それはこの映画が現実世界の客観的な描写でなく、主観的な物語であることを示している。

 さらに、一美は普段から物語を創作し空想の世界に遊ぶ子であるという設定が加えられた。今作で二人は水場に落ちて入れ替わるのだが、その水場に行く前に一美は一夫に「行こうか、わたしたちの物語の中へ」と言う。入れ替わって騒動が巻き起こると、カズオは「お前は得意かもしれないけれど、俺はこういう非現実の物語は慣れていない」と言う。いずれもこれが物語であることの強調だ。

 俳優がこれは物語であると言い出すのも変だが、セルフリメイクであり、前作のことは俳優も観客もよく知っているのだから、メタフィクションの要素が入ってきても不思議はないだろう。

 今作で「転校生」の物語を作るのはカズミとカズオの二人だけではない。ヒロシとアケミの二人がカズミとカズオの味方になる。二人は入れ替わりの状況を理解するだけでなく、その物語が壊れないように二人のために尽力する。まるで今作ではヒロシもアケミも監督の分身であり、「転校生」の物語を懸命に守ろうとしているかのようだ。


 今作では一美の体(中身はカズオ)が不治の病に侵される点が前作と違っている。だが具体的な病名が語られることはない。

 病床のカズオを見舞ったアケミがあごの辺りでピアノを弾く指の真似をすると、すぐカズオが同じ身振りで応える場面は感動する。二人には共通の思い出があり、見た目の姿がどれほど変わろうとも、心のつながりは変わることがなかった。前作にはなかったこの場面こそが今作の白眉であったと思わずにはいられない。

 その後カズオの母が「なぜ私が一美ちゃんのお見舞いを?」と言いながら、目の前の一美の姿をした子が自分の息子であることに無意識のうちに気づく場面も同じように印象に残る。

 ただし、映画全体としては、カズオが選ぶのはカズミであり、カズミが選ぶのはカズオだった。

 ヒロシはカズミに「君の心を愛している」と言うのだが、彼女から「どうしてわたしの心の中が見えるの?それはヒロシくんの中にある理想のわたしでしかない」と言われ、振られてしまう。彼は考えを改め、新しい彼女に「君のおでこは可愛い、あごの形が好きだよ」と目に見える部分を褒めるのだが、今度は彼女から「心の中を見てほしい」と言われる始末。

 そのように精神的で思弁的なつながりよりも肉体的な(それを地に足のついたと表現してもよいけれど)つながりの方を大事にする物語ではあるのだけれど、それでもアケミとカズオの精神的な絆の場面の輝きは変わらない。そしてカズミの心を愛し彼女のために尽くしたヒロシの奮闘も無駄にはならなかったと言えるだろう。


 今作での一美は不治の病に侵されるだけではなく、作品中で死んでしまう。

 その理由として、監督はDVDの特典映像で現在はそれほど抜き差しならぬ時代であること、世界中に戦争の絶えることはなく、戦争の影が身近に迫っていることをあげていた。映画の中にはそうしたことを取り込まなければならないというのだが、晩年に監督が繰り返し訴えた考えがここでも出てきている。

 けれども、観客は他の理由を考えても別にかまわないだろう。例えば、一夫はナレーションで一美の病のことを「成人に差しかかると発症する病」と表現していた。これを「大人になれない病」ととらえ、大人になれずに死ぬ一美の姿に監督の過去の作品たちを重ね合わせることもできるだろうし、今作で過去の作品たちとの別れを告げていると受け取ることもできるだろう。

 前半のコメディから後半のシリアスへと変わる中間点で蓮佛美沙子はピアノを弾きながら歌う。カズミとカズオの二人の心情に同時に寄り添うような素晴らしい歌唱だった。

 ピアノを弾いているのはカズオであり、歌っているのはカズミであり、最初はずれていた二人の演奏が最後にぴたりと合うということを監督は語っていた。だが実際に画面に映っているのは蓮佛美沙子ただ一人なのだから、彼女がカズミとカズオの二人を同時に体現し「転校生」の世界を体現していたと言ってもよいだろう。その彼女が演じる一美が死ぬということは、カズミとカズオの織りなす「転校生」の物語との別れを告げているということも言えるだろう。

 今作の全編に流れる、過去を振り返るようなノスタルジーは過去の作品世界との別れを意味しているのだと私は考えている。

2021年12月19日日曜日

三浦哲郎と梶井基次郎とチェーホフ


 三浦哲郎は随筆「橇あそび」の中で学生時代に読んだチェーホフの短篇について書いている。ただし作品名は忘れてしまったと書いている。
 三浦の紹介する話は次のようなものである。
 思春期の少女が男友達に橇に乗せてもらって丘の急斜面を滑降する。吹き付ける風の中で、少女は「僕は君が好きだ」という声を聞いたような気がする。だが少女はそれが男友達の声なのか、風の唸りなのか、空耳なのか、判断がつかない。気になった少女はまた橇に乗る。するとまた君が好きだという不思議な声。少女はその声が聞きたいばかりに、麓に着くと言わずにはいられない。「もう一度乗せて。」

 この話に関連して、梶井基次郎に「雪後」という小説がある。主人公は友人から聞いた話であり間違っているかもしれないと断った上で、妻にあるロシアの短篇作家の書いた話を紹介する。それが先にあげたチェーホフの作品なのである。ただし梶井は作家名と作品名を書いていない。
 梶井の紹介する話は次のようなものである。
 男と女が橇に乗り、風が耳元を過ぎる。風の中で女は「ぼくはおまえを愛している」という言葉を聞いた気がする。確かめるためもう一度乗る。また「ぼくはおまえを愛している」という声が聞こえる。だが何度乗っても確かなことはわからない。やがて二人は離れ離れになり、別の相手と結婚する。だが年老いても二人はその日の雪滑りを忘れなかった。

 三浦の「橇あそび」の短篇は梶井の挙げたチェーホフの作品と同じだと判断してよいだろう。
 ところが、ある人によると、三浦哲郎は梶井基次郎の「雪後」という作品を読み、その中に出てくる「ロシアの短篇作家の話」をチェーホフの作品だと思って全集を探したがどこにもなかった、と書いていたという。
 本当に三浦哲郎は全集にあたっても見つけることができなかったのだろうか。もしそうだとしたら、見つからなかったのはなぜだろう。
 先に挙げたチェーホフの作品は「たわむれ」という題名で訳されることが多い短篇であり、たいていのチェーホフ全集に収められている。
 三浦哲郎は「たわむれ」の題名を覚えていなかったにせよ、内容は覚えていたのだから、全集の中にその作品があれば気づいたはずである。
 それとも、三浦哲郎はかつてはチェーホフの全集の中に「たわむれ」を見つけることができなかったが、その後に作者がチェーホフであることは知ることができた、ということなのだろうか。

 集英社の「新訳チェーホフ短篇集」(沼野充義訳)ではチェーホフの作品は「いたずら」という題名に訳されている。
 この本での「いたずら」の印刷の仕方は少し変わっていて、雑誌掲載版と改訂版の両方が載っている。チェーホフは作品の印象が変わるほどの大きな改訂をしていたのだ。作品は初めは一段組で印刷されているのだが、途中から、すなわち雑誌掲載版と改訂版に違いが生まれるところから、印刷は二段組になる。上は雑誌掲載版、下は改訂版。両者の違いが一目でわかるようになっているが、随分と変わった印刷をしたものだ。

 改訂後の「いたずら」は次のような内容である。
 「ぼく」はナジェージュダ(ナッちゃん)を橇に乗せる。飛ぶように滑る橇の勢いが強くなり、耳元に風のうなり声ばかりが聞こえるところで「ぼく」は「好きだよ、ナッちゃん」とささやく。ナッちゃんはその言葉を本当に「ぼく」が言ったのか、風の音を聞き間違えたのか、知りたくてたまらない。二人で何度も橇に乗り、そのたびに「ぼく」はナッちゃんに「好きだよ」とささやき続ける。ナッちゃんはそれが「ぼく」の言葉なのか、風の言葉なのかわからないまま、その言葉に病みつきになり、その言葉なしではいられなくなってしまう。だが橇遊びの季節は終わり、「ぼく」は別の町に行くことになり、彼女にその言葉を言ってくれる人はいなくなる、青白い物憂げな顔のナッちゃんを「ぼく」は塀の陰から見つめ、風が吹くのを待ち受けて、もう一度「好きだよ」という言葉をかける、そのときの嬉しそうなナッちゃんの様子といったら!やがて彼女は別の男と結婚するのだが、あの橇遊びの「好きだよ」という言葉を聞いたときが生涯で一番幸せなときだったのだ、だが「ぼく」はどうしてあんな言葉を言ったのか、何のためのいたずらだったのか、わからない…

 これに対して、改訂前の雑誌掲載版は次のような内容だった。
 橇遊びの季節は終わる。もうナッちゃんはあの言葉を聞くことはできない。あるたそがれどき、「ぼく」はナッちゃんが憂いに満ちた顔を木々に向けているのを目にする。春の風に、あの甘い言葉を運んできて、と願っているようだ。「ぼく」は風が吹くのを待ち受けて、灌木の陰から「好きだよ」と言葉をかける、そのときの嬉しそうなナッちゃんの様子といったら!「ぼく」はナッちゃんに向かって駆けていく…でももうこの辺で結婚させていただきましょう。

 雑誌掲載版の方は理解しやすい。一人の男が女にいたずらを仕掛けるが、結局真相は明かされ、男はいたずらの責任を取って二人は結婚する。
 それに比べて改訂版の方は難しい。「女はその言葉にやみつきになる」「その言葉を忘れられない」「それは彼女にとって生涯最高の瞬間だった」というのは男の見解というより作者自身の見解なのだから。いたずらの件はどうなったのか、よくわからないところもある。

 ここで三浦哲郎がこの物語をどうとらえたかを思い出すと、女が主人公になっているところが面白い。不可解な状況に置かれた彼女が真相を求めて行動する、まるでミステリのような感じもある。結論は書かれていないが、小説の内容を紹介している文章ではないのだから、これはこれでよいともいえる。
 梶井基次郎による解釈の場合は、二人が別れるところは改訂版通りだが、二人の忘れられない思い出に着目して美しい物語になっている。けれどもありきたりの物語になっているようなところもあり、チェーホフの原作とは少し印象が違っているともいえる。

 チェーホフの原作は、最初は男の視点で男のいたずらが書かれるが、途中から作者の視点に変わる。物語はどうなるのだろうと登場人物に感情移入していたら、途中から作者の解説の方が重要な位置を占めるようになっていた、という少し読者を混乱させるところがある。
 改訂前の幸せな結末を無理やり操作して悲しい結末に変えたため、前半と後半が少し分離してしまったような、なんとも居心地の悪い、けれども不思議な印象を残す作品になっているようだ。

2021年8月9日月曜日

シュニッツラー「レデゴンダの日記」「死んだガブリエル」「夢物語」

シュニッツラーの「レデゴンダの日記」「死んだガブリエル」「夢物語」を翻訳しました。「夢物語」は「夢小説」「夢奇譚」「夢がたり」という題名の作品と同じです。ご自由にお読みください。すでに公開済みの翻訳から一部訳文を変更した箇所があります。「田中一郎訳」を表示してくだされば二次利用は自由です。非営利での利用をお願いします。

これらの作品にはすでに日本語訳があり、今回の翻訳にあたって参考にしました。

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2021年7月18日日曜日

シュティフター「水晶」

シュティフターの「水晶」を翻訳しました。ご自由にお読みください。すでに公開済みの翻訳から一部訳文を変更しています。「田中一郎訳」を表示してくだされば二次利用は自由です。非営利での利用をお願いします。

この作品にはすでにいくつかの翻訳があり、今回の翻訳にあたって参考にしました。

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2021年6月5日土曜日

ヴァレリー・ラルボー「幼なごころ」感想

ヴァレリー・ラルボー「幼なごころ」を読んだ。(岩崎力訳、岩波文庫)


「ローズ・ルルダン」

 語り手の名はローズ・ルルダン。寄宿学校の一学年上の女の子に恋をする。ローザ・ケスケル。愛称はレーシェン。少しでも彼女に近づきたくて、自分の名の欄に「ローザ・ルルダン」と書き始める。更衣室に行ってレーシェンのベルトを手に取り、名前に口づけする。南ドイツではローザの愛称としてローゼレがよく使われることを知り、「ローゼレ」と呼びかける…

 好きな人には近づけず、むしろ嫌悪感をもよおすような少女の方に近づき、その少女に向かって話しかけ媚びを売る描写はすごい。少女の感性を的確にとらえるその想像力はアマチュアの域を越え、ディレッタントの域を越え、まぎれもない作家の領域に達している。

 そして名前への愛着、詩的な単語が次々と変奏される点は、読書家であり該博な知識を誇った作家に相応しい。人の名前の音の響き、文字の連なりを変化させ、それによってこの小品が生み出されたのではという気さえする。それでいてそこには好きな人の名前をノートに書いた記憶を呼び覚ますような喚起力がある。


「包丁」

 主人公ミルーは父親がその友人たちと話しているのを聞き、彼らが使う「用益権」「契約」「抵当」などの言葉が理解できない。むしろそれらの言葉は醜悪だと思う。

 訳者あとがきを読むと、作者は仕掛けを施していることが分かる。ユズュフリュイ(用益権)は、果実を意味するフリュイに「ユゼ」(使い古された、すりきれた)という単語を組み合わせたもの。それにミルーの頭の中でに「腐ったリンゴ」というイメージとつながり、読者はそれによっていかに彼の頭の中で醜悪なイメージが作られているかが分かる──だがこれを翻訳するのはとても難しい──ということだそうだ。

 ミルーの普段の話相手は小作人の娘ジュリア、だがミルーは村にやって来た羊飼いの母娘の娘のジュスティーヌに夢中になってしまう。

 父親たちから「将来は何になりたいの?将軍?アカデミー会員?大使?」と聞かれれば「召使いになりたい」と答え、ジュスティーヌに少しでも近づこうと包丁を取り出して自分の手に当てる…

 ミルーの住んでいる世界は本当に小さい。だが「用益権」の世界に出たところで、そこに彼の幸福はない。ミルーはどこへ行くのか?彼の進む先はまったく見えない。やはり彼は読書家の作家へと歩んでいくのだろうか、ラルボーその人のように…


「ラシェル・フリュイティジェール」

 親が月謝を払うことができないのに「貴族的な」学校に入れられてしまった姉妹の話。この姉妹は作者の母と叔母の学生時代の姿だ。ラシェル・フリュイティジェールはその同級生だが、なぜ彼女の名が題名になっているのだろう。彼女は月謝の払えない姉妹の姿を見て、自分も月謝を持ってこなかったと嘘をついた。精一杯二人の味方になろうとした。たった一つの優れた行動があればその主は讃えられる。その思いの深さは愛情にまで達していたのだろうか。作者は呼びかけている、「愛を愛していたラシェル・フリュイティジェールよ」と。彼女は聖歌が好きだったのだろうと言っている。

 ──主よ、みもとに近づかん…

 姉妹には救いの手が差し伸べられる。いつもふらりと現れ、いつやって来るのか決して予測できない祖父の友人がたまたま両親の元を訪れ、彼が月謝を立て替えてくれるのである。もう姉妹はパパを悲しませないようにと学校に行くふりをする必要はない。やみくもに街を歩いて時間をつぶす必要はない。二人はきちんとくしけずられた髪と白いブラウスを取り戻し、作者は「福音にかなう徳の香りに満ちた小さな魂」を讃える──それはラシェルのことだ。「母の聖書と聖歌集をめくりながら、私はしばしばあなたがたのことを考えた」──それは母とラシェルのことだ。彼女たちの人生は幸福でありながら哀しみが底を流れている。作者はもう一度、これが最も美しい歌であると言って聖歌を引用して物語を終える。

 ──主よ、ともに宿りませ。

 何と美しい掌編だろう、読み終えた僕は思わずそうつぶやいたのだった。