2023年7月16日日曜日

「トニオ・クレーガー」翻訳のおぼえがき

この作品を日本語に訳すにあたって、Bürgerという語をどう訳すかは常に問題になる。リザヴェータはトニオのことをBürgerと形容し、トニオはその言葉にショックを受けるという、作品中での重要な単語である。
ここでのBürgerは芸術家とは対照的な存在、芸術家と対立する存在として用いられており、実吉訳、高橋訳は「俗人」、浅井訳は「一般人」、平野訳は「普通の人」だった。
日本人の研究者の論文を読むと、「市民」という訳語を使う人が多くいる。芸術家に相対する存在として「市民」を選ぶのは少し違和感があるが、社会を構成する人間として用いる文脈では「市民」というのは使いやすい語だと思う。
拙訳では「一般市民」「市民」を使った。Bürgerの直訳に近い単語であり、芸術家の対義語としては少し違和感を感じるかもしれないが、これはこれで許してほしい。

もう一つこの作品で問題になる単語として、das Lebenがある。トニオがdas Lebenへの愛を告白する場面はこの作品の要なのだから本当に重要な単語であるわけだが、訳語を選ぶのは本当に難しい。
実吉訳は「人生」「生活」だった。高橋訳、浅井訳、平野訳は「人生」。「私は人生を愛している」という告白になるわけだ。
「人生」という単語には、人生という時間を過ごした一人の人間というニュアンスも含まれるかもしれないが、一人の人間の過ごした時間のようなニュアンスもまた含まれている。この作品でのdas Lebenは、時間というよりは「生き生きとした人間」もしくは「人間の生き生きとした性質」のような意味で使われている気がする。もしそうならば「人生」という語は少し使いづらい。
研究者たちの中には生という訳語を使い、括弧付きで「生」と書く人がいる。時間というよりは人間の性質に重きをおいて訳した場合の語だと思う。
拙訳では山括弧付きで〈生〉もしくは山括弧なしで生という訳語を使った。「〈生〉というものは生き続ける」「〈生〉は性懲りもなく罪を重ねる」「〈生〉の側の人間が芸術に挑戦しようとするくらい哀れな光景はない」のような訳し方であり、「時間」とはニュアンスが異なる訳し方である。

〈生〉あるいは「市民」という訳語を選ぶに当たって、他の誰よりも辻邦生の存在が大きかった。彼は「トニオ・クレーガー」の翻訳を残しているわけではないが、自他ともに認めるマンへの愛で世に知られた人だった。彼には「トーマス・マン」というマンの作品についての評論をまとめた著作がある。その中で「生」と「市民」の側に属する人間に対して、「精神」と「芸術」の側に属する人間が対比されている。彼は「生」と「市民」という語を使っていた。
「生」や「市民」という訳語を使う人は他にもいるが、僕がこの訳語を選ぶ際に最初に頭に浮かんだのは辻邦生だったことを書いておきたい。

この作品では、後半のデンマークのオールスゴーでトニオが会ったのはハンスとインゲボルクだったのか、それとも彼らとは異なる別人だったのかということが問題になる。
二人が現れたと書いてある箇所の原文はイタリック体になっている。イタリック体は強調の場合だけでなく「言葉を文字通り受け取ってはいけない」ときにも用いられるとのこと。マンは後でもこの二人がハンスやインゲボルクとは別人であることを匂わせる文章を書いているが、別人であることを強調するのではなく、あくまであいまいな書き方をしている。
いずれにしても強調しておきたいことは、僕にとってこの作品の素晴らしさは、「トニオがハンスとインゲボルクに似た人に会った」点にあるのではない(似た人に会ったからそれが何だというのだろう)。ほとんど不可能な、奇跡のような出来事が筆の力によって可能となる、「インゲボルクに再会することは可能だ」ということの驚きにある。クライマックスではインゲボルク、マグダレーナ、トニオの三人の持つ意味、三人の本質が明らかになるのだが、それはその瞬間に真実が姿を現したとも言え、実際に会ったこととほとんど変わりない。

だからこの作品を訳すときには、作者にとっての真実が表現された作品だと考えて訳した。読者の皆様はどのようにお感じになるだろうか。

2023年7月9日日曜日

トーマス・マン「トニオ・クレーガー」

「トニオ・クレーガー」クリエイティブ・コモンズ・ライセンス


トーマス・マンの「トニオ・クレーガー」を翻訳しました。

かつて夢中になって読み、それからしばらくの間心が離れてしまった小説ですが、今回読んでみてやはり好きな作品だということがわかりました。訳してみたら思っていたよりも主人公に傲慢な印象を受けませんでした。もしも興味がおありでしたらぜひお読みください。

「田中一郎訳」を表示してくだされば二次利用は自由です。非営利での利用をお願いします。リンク先はテキストデータですがルビや傍点の処理に青空文庫の書式を使っています。


本文中ではZigeunerにジプシーという訳語を当てています。差別的な意味で用いられる単語であり、作品において登場人物も差別的な意味でこの語を用いていますが、本作品が書かれた時代背景を考慮して本文を変えることなく訳語を当てました。訳者に差別を助長する意図はありません。ご理解下さい。

2023年1月19日木曜日

ルパン三世1stシリーズの音楽から

テレビアニメのルパン三世1stシリーズ(旧ルパン)はとにかく音楽が良かった。物語の単なる伴奏にとどまらず、劇中に流れる音楽をそれだけ取り出して聴いても心躍るような素晴らしさがあった。

テレビ放送の音源を集めた「ルパン三世'71MEトラックス」というCDを聴いた。放送時に製作された音楽が効果音と一緒に収録されている。新規に演奏したものではなく、番組を観たときに聴いていたそのままだからうれしい。ブリッジのような数秒の長さの曲も丁寧に収録してくれていて有り難い。
高島幹雄さんが解説を担当している。それによると、音楽を担当した山下毅雄さんはルパン役の山田康雄さんとは彼がテアトル・エコーに在籍していたころからの知り合いだったという。山下氏にとって、山田氏のイメージはロックであり、だからルパン三世の音楽は山田氏のイメージで作られたものだった。
アクションシーンで流れる音楽はごく短いフレーズの積み重ねで作られていて、全体として調和のとれた世界を構築するという音楽ではなく、それは例えば警察の予想もしない方法で宝石を盗むような敵の裏をかくルパンの世界に一致するものだった。
旧ルパンの音楽を聴いていると、あらためて僕の中でその音楽が占める割合は大きかったのだな、と思う。
AFRO "LUPIN'68" TV ORIGINAL

話はルパン三世やアニメ音楽一般に限らず、その後クラシック音楽を聴くようになってからも、フレーズとフレーズをつなぐ経過句のような、曲の中でそこだけ独立した世界を作るような曲想が好きになることがあった。
旧ルパンの音楽とは音楽としては似てもつかないけれど、独立した世界という意味では例えばモーツァルトの「ジュノーム」のメヌエットや、あるいは経過句という意味ではピアノ協奏曲第23番の第3楽章の中間部などは僕の中で印象に残っている。
全体の構成はまったく似ていなくても、細部の現れ方だけを取り出せば意外なものに共通点が見えてくるかもしれない。
ピアノ協奏曲第9番第3楽章(25:38~)
ピアノ協奏曲第23番第3楽章(21:17~)

音楽に限らない話をするなら、小説の中で急に文体が変わり、文章の調子がそれまでと変わることがある。
ドイツ語の小説ではムージルの「愛の完成」やカフカの「判決」などはそのような作品として印象に残っている。それまでは一つの文章が長かったのに、クライマックスになると文が短くなり、たたみかけるような調子になっていた。
「愛の完成」では参事官の誘惑に屈するまいと抵抗していた主人公が突然堰を切ったように行動へと駆り立てられていた。「判決」では弱気な態度に見えた父親が豹変し、すると主人公は家を出て川にかかる橋まで走り欄干を飛び越えていた。
そうした小説のドイツ語を日本語に翻訳してみたことがあるが、原文が短いとき思い切り訳文を短くしていた。そんなときは心の中で、作者が急に調子を変えたとしてもついていこう、作者が急加速したとしても遅れることなくついていこう、という気になっている。どうやら僕は訳文を考えながら、自分の文章を加速させて文章の調子が変わることを楽しんでいるようだ。

そういえば子どもの頃にシャーロック・ホームズをよく読んでいた。名探偵が登場する短篇だからまわりくどくなく、物語は一気に真相に到達する。物語の末尾にホームズが事件を要約する一言を述べたり、古人のことわざを引用して鮮やかに締めくくられることも多い。ホームズ以外にも探偵小説や推理小説、ミステリと呼ばれるジャンルへの偏愛はずっと続いている。一気に真相にたどり着く物語、何か急に流れが変わるという点に惹かれているのかもしれない。

だから(あくまで仮の話だが)自分で小説を書くとしたら、推理小説であったとしても殺人事件が起きる必要はなく、名探偵が出てくる必要もないだろう。「日常の謎」であってもよいだろう。けれども物語には中心となる一点があって、主人公はその一点についてあれこれ思索をめぐらすことは必要かもしれない。そして文体によって何かを語っている小説。はたしてそんな小説を書くことは可能だろうか。

2022年12月18日日曜日

葛西臨海水族園に行った。


葛西臨海水族園に行くのは実は初めてだった。ぐるっとパスで入場できることがわかって行ったのだが、今回行ってみていつかまた行きたいと思った。

京葉線の葛西臨海公園駅で電車を降りた。目の前に公園に向うメインストリートが延びている。道は広々としており、朝の日を浴びて晴れやかな気分で水族園に向かった。しばらく進んで左に曲がるとその先に水族園がある。建物だけの「水族館」ではなく、屋外の展示や周りの散策路を含めて「水族園」と呼んでいるのだ。

その散策路は水族園から帰るときに通った。道の両脇は芝生が整備され、さらにその向こうには木が並んで植えられていた。芝生の上はきっと暖かい季節には家族連れのピクニックでにぎわうのだろう。

水族園にぐるっとパスで入るときは、管理室をインターホンで呼び出して、ぐるっとパスを見せ、すると入場券のようなものを渡される。それを入り口で渡して入る仕組みになっていた。ぐるっとパスで入場する人が多かったらどうするのだろう、混雑して時間がかかりそうだな、と思いながら入った。

建物内の展示には、入場者の興味を引くような配慮が感じられた。水槽の上から係員の手が伸びてきて餌を与える。餌を食べるところを見せているわけだ。展示されているのは常に動いている魚ばかりではない。深海の生物たちはじっとしていることもある。すると今度は係員が棒のようなもので触れて動くよう促していた。
屋外に出るとペンギンの展示があった。横に長い水槽は水上の様子も水中の様子も見ることができるようになっていた。水の中を飛ぶように泳いでみたり、水中で糞をしてみたり。

さりげなく学問的な展示もされていたことが印象に残った。
屋外に潮だまりの展示があり、本物の海のように人工的な波を起こして潮だまりを再現していた。脇の水槽では生き物に触れることができた。
建物の中には世界の色々な海の様子が展示があり、どの海域にどのような魚が棲んでいるかを教えてくれた。さらにまた、クラゲやプランクトンなどについて学問的な内容を楽しく伝えようとするコーナーがあった。
マグロの回遊展示で有名な水族園だが、それだけでない展示全体に魅力を感じることができた。よかったと思う。


2022年12月3日土曜日

牧野信一「爪」「闘戦勝仏」「月下のマラソン」

 wikipediaの牧野信一の項を見ると、デビュー作として「爪」と「闘戦勝仏」の2作が候補としてあげられ、どちらをデビュー作とするかについては複雑な問題があると書いてある。「爪」の初出は1919年(大正8年)12月発行。「闘戦勝仏」の初出は1920年(大正9年)10月発行。
 ところが牧野は作家として活動する前に時事新報社の雑誌「少年」「少女」の編集の仕事をしており、そのとき雑誌にいくつかの作品を寄稿しているのだ。
 例えばその中の「月下のマラソン」の初出は1919年(大正8年)9月発行で、「爪」や「闘戦勝仏」より早い。にもかかわらず「月下~」がデビュー作とみなされないのは、正式な作家活動以前の作品と考えられているからだろう。
 だがそれにしても「月下のマラソン」は強い印象を残す。
 中学生の主人公は夜間に開催される学校対抗のマラソン大会に参加する。応援の人垣がとだえ、急に静かになったコースを走りながら思索にふける。空に浮かぶ月を見て事故で亡くなった友人を思う。友人は遠い世界に行ったのではない、常に月のように自分のことを見ている、どれほど遠くまで走っても自分についてきてくれる、と。
 少年少女のために書かれた作品には、夢見るような美しさがあった。

 牧野信一には「ギリシャ牧野」と呼ばれる時期がある。例えば「ゼーロン」であれば小田原駅から足柄峠に向けての旅行がストア学派の吟遊詩人の旅に変わるように、現実と空想が二重写しになり、日常の風景が楽園《アルカディア》と変化する作品が多く書かれた時期である。
 重苦しい血縁関係に閉じこめられるような私小説を書いていた作家が、幻想の翼を得て天高く羽ばたくような作品を書くようになった時期だった。
 では「ギリシャ牧野」時代とは、まぐれのようなもの、ただの徒花だったのだろうか。
 少年少女のために書かれた小説を読んでいると、そんなことはない、と思わせてくれる。子どもに向けられた美しい空想、幻想性は「ギリシャ牧野」時代の作品たちの萌芽という感じがする。
 「ギリシャ牧野」の作品たちは、彼が小説を書き始めた若き日の作品たちとつながっている。そう思えたことはうれしかった。
 デビュー作がどちらの作品であるかはどうでもよい。二人のライバルが競い合うように並んでいるかのようなその後ろで、自らの存在をひけらかすことなくたたずんでいるもう一人の姿。私はそんな場面をふと想像してしまった。正式なデビュー作とは認められなくても、牧野信一はこの「月下のマラソン」という作品を世に残した、その方が大事なことだ。
 自分の中だけで満足を感じながら、今まで読んでいなかった「闘戦勝仏」はどんな作品なのか、読んでみた。
 玄奘と悟空たちの旅を書いた物語だった。
 彼らは旅の途中で朱紫という国に着くのだが、景色も人々の容姿も優しく美しい。その中にあってこの世のものとは思えぬほど美麗な王と王妃のために悟空は奮闘する。
 どこかユルスナールの「東方綺譚」を連想させるような、幻想小説という形容がぴったりの作品だった。
 牧野信一の他の小説とは全く毛色が異なっており、ここにも幻想的な作品が存在したのか、と思いながら最後の行にたどり着くと、そこに書かれていた文字。
 (七年八月作)
 大正7年(1918年)8月ということだろうか。発表が後になっただけで、書かれたのはもっと早かったということだろうか。発表順でなく書かれた順に並べるとするならこれが最初の作となるのかもしれない。
 そうすると、デビュー作を「爪」と「闘戦勝仏」の2つで争っているのは、発表が先か制作が先かという点でだったのか。
 私が頭の中で思い描いた「二人のライバルの影に隠れる一人の姿」というのはあまりにもピントが外れた物の見方のような気がしてきて、もう一度頭の中で作品たちの姿を想像してみた。
 「爪」は私小説として、「闘戦勝仏」は幻想小説として、「月下のマラソン」は現実と空想が二重写しになった小説としての姿でそこに現れた。さらに「ゼーロン」の最後の場面で作者と銅像と父とゼーロンが四人組の踊り(カドリール)を踊るように、それぞれの作品が手を取り合ってたたずんでいるように思えてきた。そしてそんな彼らの姿を月の光が優しく包んでいるような気がするのだった。

2022年11月5日土曜日

シュニッツラーのTraumnovelleという小説のタイトルを何と訳すか?

シュニッツラーという作家に“Traumnovelle”という小説があるが、この作品の題名を何と訳すべきか迷ってしまった。Traumは「夢」でよいと思うのだが、問題はnovelleの方で、題名としてふさわしいのはどのような訳語だろう。すでに何種類かの日本語訳が出ているから、それを参考にしてみよう。先人たちは題名をどう訳しているだろうか。

調べてみると、出版されている書物ではいくつかの異なる題名が存在することがわかった。
岩波文庫の池内紀・武村知子訳では「夢小説」となっている。
ハヤカワ文庫の尾崎宏次訳では「夢がたり」となっている。直訳すれば「夢小説」になることを認めつつ、編集者とも相談の上で「夢がたり」に決めたとのこと。
文春文庫の池田香代子訳では「夢奇譚」となっている。
さまざまな題名に訳されているが、訳者たちはなぜその題名にしたのかを明確に、簡単に分かるように書いてくれてはいなかった。

辞書でnovelleという単語を調べてみよう。
独和辞典によるとnovelleは「ノヴェレ、短編小説、短話」である(小学館独和大辞典)。
独独辞典によるとnovelleは「短篇あるいは中篇の長さを持ち、単独の事件を扱い、結末に向けて直線的な筋の経過をたどる物語」とある(Duden Wissensnetz Deutsche Sprache)。
ちなみに英語のnovelは長篇小説のことを指す(短篇小説はshort storyと呼ばれる)から、ドイツ語のnovelleとは異なっている。また英語のnovelには「新しい」という意味もある。だから人が小説のnovelと「新しい」という概念とを結びつけたとしてもそれはおかしなことではないだろう。
ゲーテがnovelleという単語について「前代未聞の出来事にほかならない」と言っている(エッカーマンの「ゲーテとの対話」による)。ではシュニッツラーのTraumnovelleという小説の内容を見てみよう。どのような内容だろうか。

主人公はフリードリーンという医師であり、妻と幼い娘がいる。妻との仲は良好だが、身の回りにいる何人かの女に戯れのような浮気心を抱いている。ある夜、彼は秘密のパーティーに参加する。初めは舞踏会のように思われたが、途中から大勢の裸の女たちが出てくる夢の世界のような奇妙なパーティーだった。一人の女と会話を交わしたところで彼は部外者であることがばれて追い出される。朝帰りをした彼は妻から彼女の見た夢の話を聞かされる。とりとめのない、それでいて彼女の心の奥にある浮気願望を感じさせる夢だった。彼は腹を立て仕返しをしようとするが、浮気相手ともくろんでいた女たちは次々と彼の元を去る。パーティーで出会った女と思われる女が自殺したことを新聞で知る。病院の死体置き場を訪れて確かめようとするが、当の女かどうか判断できない。主人公は浮気心を捨て、妻と誠意をもって向き合うことを決心するのだった。

Traumnovelle の訳語の候補として、池田香代子訳の「夢奇譚」を考えてみよう。
ゲーテによるとnovelleとは「前代未聞の出来事」であるが、「珍しい話」「珍奇な話」「奇妙な話」と言われることがある。novelleという題名を持つ小説にもさまざまな内容が含まれるということだろう。
だがそのような中においても奇妙な雰囲気の小説であれば、「奇譚」という語を使ってもよいと思われる。奇妙な話と呼ばれるための条件としていくつかあるだろうが、夢のような不思議な話、日常と異なる論理が支配する話などは奇妙な話と呼んでよいだろう。
もう少し題名にnovelleという語を含む小説を考えてみよう。シュニッツラーの他にもツヴァイクやゲーテの作品にnovelleを含む題名の作品があるから、それらを見てみよう。

ツヴァイクにはSchachnovelleという小説があり、「チェスの話」「チェス奇譚」と訳されている。
小説の主人公B博士は物語の途中から未知の人物として登場する。B博士がチェスに熟達するようになった状況は印象に残る。ホテルの一室に幽閉され、閉ざされた空間で自分と対局を重ねることでチェスに熟達するが、現実から離れた空想の世界に生きたことによって精神の安定を逸する男。小説には当時ナチの台頭に伴って多数派を占めつつあった、ある種の共通した特徴を備えている人々への批判的な目があり、夢のような話というよりもっと苦い現実社会の認識があった。
もしもこの小説が奇妙な話だというなら、それはホテル内への幽閉によって異常な能力を手にした男の物語という点にあるだろう。

ゲーテにはそのものずばり、Novelleという題の作品がある。先にあげたエッカーマンとの対話はこの作品について述べたものである。
エッカーマンはゲーテに言う。ある登場人物を小説の始めの方にあらかじめ出しておくのではなく、クライマックスで未知の人物として登場させる方がよいでしょう、と。ゲーテはその意見を認める。さらに、題名は「ノヴェレ」にしようと言い、そもそもノヴェレとはにわかに起こった前代未聞の出来事にほかならないのだから、と言う。
ゲーテが「novelleの本来の意味は前代未聞の出来事だ」と言ったのは、特定の小説「ノヴェレ」についての議論の流れからだった。さらに、そこでは読者にとって未知の登場人物を出す、未知の事実が明かされる、という意味合いが込められていた。
その「ノヴェレ」という小説は、このような話である。
城に住む侯爵夫人が城下町を訪れると、市場で火事が起き、その影響で見せ物小屋のライオンが逃げ出す。狩に出ていた侯爵が戻ってきて、ライオンを捕え殺そうとするが、ライオンの飼い主がそれを止める。ライオンは飼い主家族の笛と歌の力によって、おとなしくなるのだった。
ゲーテの作品は奇妙な話というより、ある事件の顛末が語られる小説であり、全体は詩的散文としての雰囲気を持っている。

novelleという題名を持った小説の中でもその内容はそれぞれ異なっていた。
シュニッツラーのTraumnovelleについて考えてみると、妻が自分の見た夢の内容を延々と語っていた。主人公が参加したパーティーには意味有り気に裸の女たちが現れるが、結局それが何を意味していたのかは明らかにされない。主人公が「さる大公の仕業ではないか」と独白するのみである。小説の描写は夢の中のように断片的なものになっている。
そのような意味において、シュニッツラーのTraumnovelleは先にあげた小説の中で一般的な意味での「奇妙な話」に近く、「奇譚」と呼ばれるにふさわしいだろう。だからTraumnovelleを「夢奇譚」と訳すのは悪くないだろう。

さて、ここまで書いてきて「田中一郎」訳のTraumnovelleはどのような題名に訳されたのだったか、見てみよう。
「夢物語」
嗚呼、本当にこの題名でよかったのだろうか?

2022年8月13日土曜日

ムージル「愛の完成」感想

(改訂しました。2023年10月29日)

目次

1.初めに

2.クラウディーネの不感症的傾向

3.自分が今の世界にいるのは偶然である

4.自分は他の世界に順応できる

5.隠されたもの、言葉で表現できないもの

6.参事官の姿の抽象性

7.参事官への欲望

8.最後の場面での会話

参考文献


1.初めに

ローベルト・ムージルの小説「愛の完成」に関して、たまたま読んだ二つの論文がともに最後の場面について思いがけない解釈をしていた。

最終的にクラウディーネと参事官の間に何が起きたのか、ムージルの記述は抽象的であいまいなためはっきりしないのだが、それにしてもMenck氏の「性行為が書かれる直前で小説は終わった」という解釈は予想外だった。

DeSocio氏の方もやはりムージルが詳細な情報を伝えていないと言い、小説の主題はクラウディーネと参事官の問題ではなく、クラウディーネと夫の問題なのだ、と結論付けている。

私はこの小説を最後まで読んで、てっきり性行為は行われたと思っていたから、先の二人の見解には意表を付かれた。

それで私はこの小説をどのように解釈していたのか、あらためて考えてみた。論文とは似てもつかない感想文のような形だけれど、書くことにしよう。


2.クラウディーネの不感症的傾向

拙訳ではクラウディーネの不感症的傾向が強調されていたことを断っておかなくてはならない。そして原文はそこまであからさまに書かれているわけではないということも。


…und deine Zärtlichkeiten fanden mich nicht mehr, und ich traute mich nicht, dich zu bitten, daß du mich lassen solltest, denn in Wirklichkeit war es ja nichts,…


古井由吉さんは「あなたの優しさはあのときあたしを見つけられなかった」「あたしと別れて」と訳しており、早坂七緒さんは「あなたの愛撫にはもはや私は応えられなかった」「私をそっとしといて」と訳している。

拙訳では「あなたから愛されても私はもう何も感じなかった」「放っておいてほしい」となっている。


Etwas Lockeres, Bewegliches und dunkel Empfindsames an einer Stelle ihres Verhältnisses, wo in der Liebe anderer Menschen nur knöchern und seelenlos das feste Traggerüst liegt.


古井由吉さんは「他者同士の愛にもとづいて、」「彼女の関係のどこか一箇所で、何かがゆるみ、浮動し、ぼんやりとものに感じやすくなっていた」、早坂七緒さんは「ほかの人々の愛にあっては、ただ骨組みだけで生気のない、頑丈な柱梁構造があるところで、彼女の関係のその箇所には何かしらほどけて、しなやかで、仄暗く感じやすいものがあった」だった。

拙訳では「他の人間にとっては愛の場面で意識もしないような固くしっかりした基礎の部分に、彼女の場合は不確かなもの、何かゆるんだもの、暗く閉ざされた感覚があるのだった。」


Sie spürte sein Gefühl von sich, das, näher als alles andere, um sie geschlossen war, mit einemmal wie eine unentrinnbare Treulosigkeit, die sie von dem Geliebten trennte, und…


古井訳「ほかの何よりも親しく彼女をつつみこむこの肉体の自己感覚を、彼女はいきなりひとつの脱れられぬ不実、愛する人から彼女を隔てる不実と感じた。」

拙訳「彼女の感覚自体は誰よりも近いはずの彼女に対して閉ざされており、不意にそのことが夫と自分を隔てる紛れもない不実であるように感じられた。」


in dem sie alles sah, was sie tat, diesen stärksten, aus ihr herausgerissenen Ausdruck der Überwältigung, diese größe vermeintliche Heraufgeholtheit und Hingegebenheit ihrer Seele,… 


古井訳「…彼女は自分のおこないのすべてを見た。このいかにも烈しい、内から力ずくでつかみだされた、情熱の圧倒の表現を。この途方もない、しかし間違いの、魂の高揚と自己放棄とを。」

拙訳「その中に彼女は自分自身の行動のすべてを、この上ない鮮明さで見るのだった。これまで彼女から奪われていた姿、快楽に翻弄される姿を、およそ彼女の心が誤って取り除き、放棄していた姿を──。」

  

このように原文を併記すると訳文の水準が分かってしまうから恥ずかしい。けれどもこの小説が性的快感から遠ざかっていた女性が最後にそれに出会う話という側面を持っていること、少なくとも拙訳はそのように訳していることは断っておくべきだろう。


3.自分が今の世界にいるのは偶然である

小説の冒頭(第一部)でクラウディーネと夫との関係が語られている。クラウディーネは夫への愛を思い描き、二人が互いにぴったりと合わさって一つとなっている(プラトンの二体一身の人間像を思い出させるような)イメージを描く。

だが小説が第二部に入ると、夫との関係に何やら影のようなものが差し始める。

クラウディーネは娘のリリーが通う寄宿学校へ向けて旅立つ。それと同時に彼女の過去が書かれる。リリーは彼女の最初の結婚のときの子であり、本当の父親は彼女がたまたま訪れた歯医者であったこと、過去の彼女はまるで浮気女のように次々男と交渉を持ったこと。

彼女はそうした過去の人生を振り返り、現在の夫との生活は単なる偶然の産物なのではないかと考えるようになる。


クラウディーネは幸福の中にあってもしばしば、これはたまたま現実となっただけであり、ほとんど偶然の産物なのだという意識に襲われることがあった。彼女はときおり、もしも今とは全く違う形の自分にふさわしい人生があるのだとしたら、と考えたりもした。


内心ではこれは単なる偶然の産物なのだ、偶然と事実という取り替え可能な覆いだけが私を彼らから隔てているのだ、という奇妙で悲しい喜びを感じていた。


そしてそのとき初めて自分の愛について、ある考えが彼女の頭に浮かんだ。それは偶然なのだ。何かの偶然によって現実となったものを、私は手放さないでいるということなのだ。


4.自分は他の世界に順応できる

クラウディーネはさらに、自分は他の男と関係を持つことも可能なのではないか、と考え始める。

そして、訪問した寄宿学校の教師たちや、過去に散歩時に見かけた男たちについて、彼らの世界の内側に閉じ込められた自分を想像する。


そして彼女は突然、彼女もまた──こうした物たちすべてと同じように──自分自身に閉じ込められ、一つの場所につながれ生きているのだと思った。私は長い年月に渡ってある決まった町の中、あるいは家の中、一つの住まい、一つの感情という、ごく狭い場所にいるのだ、と。


それはまるで、住宅の間を歩き不快感を感じていたのが、しだいにすっかり穏やかな気持ちになり、人はここで幸福になれるのかもしれないと想像し始め、そして突然自分がその当人になる瞬間が訪れたかのようだった。


私たちは、私たちのような人間は、もしかするとこんな人間たちとも一緒に暮らせるのかもしれない。


もしも私がこの男たちの一人の生活圏内に閉じ込められたとしたら、そのときなるであろう人間に私は実際になり得るのだろう。


こういった人々の中には、私にはふさわしくない、私とは他人だと思うような男が暮らしている。けれどももし私がその男にふさわしい女になっていたなら、今日そうであるような自分については何も知らなかったかもしれない。


5.隠されたもの、言葉で表現できないもの

さらにクラウディーネは自分の愛について(欲望について)、それが言葉では語れない、とらえられないものだという印象を持つようになる。

そこにフロイトの言う抑圧されたもの、意識化されることのない衝動に近いものを見出すことができるかもしれない。

あるいは、ラカンの言う「現実界」、言語の外側にある領域に近いものかもしれない。

拙訳では、ここでクラウディーネの不感症的傾向が顔を覗かせる。彼女は自分の感覚が自分へと届かないこと、自分の肉体が自分の理解の外にあることを意識するのである。


彼女はその瞬間、彼女の体はそれ自体が感じたものをまるで故郷のようにぼんやりとした障壁として覆っている気がした。彼女の感覚自体は誰よりも近いはずの彼女に対して閉ざされており、不意にそのことが夫と自分を隔てる紛れもない不実であるように感じられた。そして彼女の体が守っていた最後の貞節は、なすすべもない未知の経験が降りかかるうち、彼女の内側の不気味な最奥部でそれと反対のものへと転じたように思われるのだった。


意志の決定にことごとく逆らう謎めいた肉体の感覚に対して、彼女の内にある暗黒や虚無を覗くような戦慄を覚えるうちに、彼女は自分の体を突き放したい欲求に駆られるのだった。


6.参事官の姿の抽象性

クラウディーネは娘が通う寄宿学校がある土地に向かうのだが、列車の中で見知らぬ男と知り合いになる。

彼(以降、彼は「参事官」と呼ばれる)が何者なのかは物語が先に進んでもはっきりしない。彼は抽象的な存在にとどまり、クラウディーネの彼に対する印象は断片的にほのめかされるのみである。

やがてクラウディーネの中で徐々に彼に対する興味が高まってゆく。それまで夫への愛を語っていたのに、それからの彼女の行動は参事官から決して離れることなく、彼を中心に回り始める。まるで新しい恋人を見つけたかのように。


そしてそのとき不意に参事官の姿が頭に浮かび、すると彼女は刺激を感じた。男が自分に対して欲望を抱いていることを彼女は知っていた。さらにここで可能性との戯れでしかないことが、彼の元では実現することも。


彼女は参事官が今どこかで自分のことを待っている気がした。すでに周りの狭い視界に彼の息が満ち、近くの空気に彼の匂いがするのだった。彼女は落ち着きがなくなり帰り仕度を始めた。彼に会いに行こうとしている自分に気付き、それがどのような結果をもたらすかを考えると、たちまちその想像は彼女の体を冷たくとらえてしまった。


前に座った参事官は、彼女の体に秘かに隠された恋人像が自分に近づいたことを感じ取ったに違いない。そして彼女はすでに、彼が眠気を誘うような一本調子で話している間、おぞましい音を立てて餌を食む山羊のように絶え間なく上下に動き、消え入りそうな言葉を反芻する彼の髭の動きから目を離すことができないのだった。


7.参事官への欲望

小説はクライマックスに近づき、参事官を求めるクラウディーネの行動はますます大胆になるが、文章は抽象的なままなので読者はクラウディーネの内面を想像するしかない。

ホテルの部屋の中で、扉の向こうに立つ参事官の姿を想像しながら裸で床に四つん這いになる彼女の行動は激しい。

だがそれは客観的で冷たい描写であるともいえ、内面の情欲は書かれていないがゆえに読者の想像をかき立てるともいえる。それはまた、それまでかすかに、徐々にほのめかされていた参事官への欲望がついに表に現れたという印象にもつながるだろう。

確かに小説の記述は最後まで抽象的であいまいな記載にとどまっている。だが、その彼女の描写の変化をたどるなら、最終場面では彼女が性行為によって失われていた快感を得たことが書かれているのではないだろうか。


そのとき彼女はこの絨毯の上に身を投げ出し、犬のように鼻を鳴らしながらその不快な足跡に口をつけて興奮したいという欲求に襲われた。


彼女の体が男の体の下に横たわる姿を、小川の流れのようにあらゆる細部まではっきりと思い描いた。青ざめた自分の顔を、身を任せるときの恥ずかしい言葉を、彼女の上に覆いかぶさり、彼女を押さえ付けている男の猛禽類の翼のように逆立つ目を感じた。


彼女は自分自身の行動のすべてを、この上ない鮮明さで見るのだった。これまで彼女から奪われていた姿、快楽に翻弄される姿を、およそ彼女の心が誤って取り除き、放棄していた姿を──。


するとそのとき、彼女はぞっとするような感覚に体を震わせ、快感があらゆる障壁を乗り越えて彼女の肉体を満たしたことを感じるのだった。


8.最後の場面での会話

最後の場面ではクラウディーネの内面はほとんど描写されることなく、彼女の発言のみが書かれている。

それを読むと、彼女が参事官に夢中になっている、彼のことを愛してしまったと読めるのだが、これは誤解なのだろうか。

 

Nicht wahr, du liebst mich? Ich bin zwar kein Künstler oder Philosoph aber ein ganzer Mensch, ich glaube, ein ganzer Mensch. 


君は僕のことが好きなんだね。僕は確かに芸術家でも哲学者でもないが、立派な(ガンツァー)人間だと思うよ。


ここは訳し方が難しい箇所であり、古井由吉さんは「全的な人間」「まったき人間」と訳していた。

拙訳では参事官は「立派な人間」と言い、クラウディーネは「全体としての人間」と言っているとして、二人の解釈が異なっている風に訳した。クラウディーネは自分では参事官を部分的に好きになったことを認めるが、全体として好きだとは認めない。


Nicht so, ich meine, wie sonderbar, daß man einen gern hat, eben weil man ihn gern hat, seine Augen, seine Zunge, nicht die Worte, sondern den Klang…


「そんなことはないと思います。あの人の目が好き、あの人の話が好き、言葉ではなくて声の響きが好き、だからあの人のことが好き、というのはおかしいわ。」


一般論を話しているようで、参事官に向けてあなたの目が好き、あなたの声の響きが好き、と言っているように読める。


Nein, ich liebe, daß ich bei Ihnen bin, die Tatsache, den Zufall, daß ich bei Ihnen bin.


「そうではなくて、参事官さんのそばにいることが好き、参事官さんのそばにいるこの現実が、偶然が好きなんです。」


表面上は抵抗しているのに内面では完全に相手に屈服している、言葉では「好きではない」と言いながら内心では好きになってしまった状況に淫靡な雰囲気を感じる読者がいてもよいと思うが、どうだろう。参事官の言う通り「君は考え違いをしている。君は僕を好きになったんだ。まだそれを認められずにいるだけだ。それはまさしく本当の愛情である証しだよ。」と思う。


 Und noch einmal sprach sie: «Bitte, gehen Sie weg», sprach sie, «mir ekelt.»

  Aber er lächelte nur. Da sagte sie: «Bitte, geh weg.»


そして彼女はもう一度言った。

「お願い、離れてください……」彼女は言った。「……嫌だわ……」

けれども彼は微笑んでいるだけだった。それで彼女は言った。

「あなた、お願い。離れて。」


最後の最後にクラウディーネによる参事官の呼び方が敬称 Sie から親称 du へと変わるところも淫靡な雰囲気がある(この文はたまたま命令形なので du は出てこないけれど)。古井由吉さんは「参事官さん」という呼び方から「あなた」へ変わることでそれを表現していた(拙訳も同じやり方を踏襲しました)。

拙訳では原文にない「……」が出てきている。実は私が初めて見た原文の書籍では «Bitte, gehen Sie weg» にはピリオドもコンマもなかった。そのため「……」を使ったのだが、お読みになっている皆様は「それはおかしいのではないか」と言われるかもしれない。

 

真面目にこの作品をとらえている方々と比べて私の場合は自分勝手な解釈が入っているようだ。自分の翻訳によって作者の真意を代弁しているなどと大それたことを言うつもりもまったくない。作品のあまりにも抽象的な文章に対して(このような解釈も可能になってしまいますが)と恐る恐る言うことができるだけである。



参考文献

Anna-Lisa Menck, „heimlich, weit draußen, irgendwo…“ – zur Konzeption von Räumen und Grenzen in Robert Musils „Die Vollendung der Liebe“ (2012)

Domenic DeSocio, The Times of Their Lives: Queer and Female Modernism, 1910-1934 (2021)

早坂七緒、Kaiser/Wilkinsの英訳版からみた„Die Vollendung der Liebe“、ドイツ文化 (通号47) (1992) p25-48

ムージル作、古井由吉訳、愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑、岩波文庫(1987)