カフカの『判決』『変身』、ムージルの『愛の完成』『夏の日の息吹』を翻訳しました。今までそれぞれが別の記事に分かれていましたが、今回一つの記事にまとめました。
テキストデータにリンクを張りましたので興味がおありでしたらお読みください。「田中一郎訳」を表示してくだされば二次利用は自由です。非営利での利用をお願いします。改変してもかまいません(主に部分的な引用や書籍リーダーのためのデータ変換のことを想定しています)。
フランツ・カフカ
『判決』
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『変身』
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(底本としてFischer社の版を使用しました)
ローベルト・ムージル
『愛の完成』
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『夏の日の息吹』(1942年、『特性のない男』より)
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(底本としてRowohlt社の版を使用しました)
カフカ『判決』について。
『判決』における文章は、ゲオルクに都合のよいように嘘をつき、真実を隠してあいまいな記述をしていると思います。
冒頭に“Haus”という単語が出てくるのですが、これを「家」と考えて「友人が家から出る」「友人を家に戻す」という意味だとすれば、友人=兄弟という可能性もあります。(ゲオルクの分身という可能性もあるけれど。)
父が「ペテルスブルクに友人はいない」「お前の友人のことはよく知っている」という発言も、「ペテルスブルクに友人はいない(兄弟ならいる)」「お前の(言うところの)友人のことはよく知っている」と言っているとすれば、父は首尾一貫した真っ当な発言をしていることになります。
また、ゲオルクが住んでいる家は川沿いの日の当たらない家ですが、彼が貧しいのだとすれば、「店の収入は五倍になった」という景気の良い文章は疑わしくて、“schloß Geschäfte ab”という表現も「店をつぶした」という意味である可能性があります。
そして、店がつぶれたのが少し前の話だとすれば、父が「あの嫌な女」と言っているのも、現在の婚約者であるフリーダ・ブランデンフェルトではなくて、「前の婚約者」かもしれません。
ゲオルクはフリーダとの婚約の前に「どうということもないつまらない男」の婚約について手紙を書いていますが、それが彼自身のことだとすれば、「前の婚約者」が存在する可能性があります。
そう考えてくると、父が「お前についての報告はこのポケットの中だ」と言いますが、その後に続くべき文章も、「(それが公開されれば)父の面目は丸つぶれ」ではなくて「ゲオルクの面目は丸つぶれ」になります。
いずれにしても、ゲオルクは何か非難されるようなことをして、父は真っ当に彼を責めているのだという考えです。まあ彼が何をしたにせよ、彼の最大の罪は(少しふざけた言い方をすれば)、真実を読者に隠したということなのかもしれませんが。
ただし、父が最後にゲオルクに死を宣告して、ゲオルクがそれを受け入れるのは虚でしょう。ゲオルクがどのような悪いことをしたにせよ、彼の死には必然性がありません。嘘をついていた地の文章の最後にまた嘘が出て来たということです。
会話文が信用できないのではなく、地の文が信じられないというというのも変ですが、例えば体験話法のように三人称でありながら限りなく一人称に近づく文章があるように、地の文がゲオルクの都合の良いように書かれているということだと思います。
ムージル『愛の完成』について。
『愛の完成』のクラウディーネの身持ちの悪さの原因の一つには、彼女の不感症的傾向があると思います。ただし、それはかすかにほのめかされるだけですが。
例えば、夫との会話での「あなたから愛されても私はもう何も感じなかった」という発言。あるいは、「彼女の体は、それ自体が感じたものを、まるで故郷のようにぼんやりとした障壁となって覆っており、肉体自体が感じたものは、他の誰よりも近くにいる彼女のものとならなかった。」という文章。
いずれも別の意味にも解釈できるあいまいな表現ですが、このようなほのめかしは底流のように作品全体を流れ、ときどき姿を現します。
この小説では地の文だけでなく、会話文も難解な表現が使われています。例えば、彼女が出会う参事官は「まるでおとぎ話ですね。田園風景、魔法をかけられた陸の孤島、美しい女性。あらゆるものが繊細な純白の下着を身にまとうのだった…」と言います。この訳文は、車窓の外に広がる雪景色になぞらえて、クラウディーネの下着姿がほのめかされているという解釈なのですが、原文の構造をそのまま訳してもこうはなりません。
この行きずりの男に対してクラウディーネはいったん嫌悪を感じるわけですが、そう言っているそばから本当は彼に心奪われているわけで、いったん別れた後も彼のことを思い浮かべるたび、「彼に会いに行こうとしている自分に気付き、それがどのような結果をもたらすかを考えると、たちまちその想像は彼女の体を冷たくとらえてしまった。」という有様です。
やがて彼女は自分の部屋で服を脱ぎ捨てて男が来るのを待ち、男の体の下に横たわる彼女自身の姿を(快楽に翻弄される姿、これまで彼女から奪われていた姿を)想像するに至るのです。そしてその夜は何事も起こらなかったものの、次の夜についに彼に身を任せてしまうのです。
最後の場面で彼の発言に出てくる、“ganzer Mensch”という言葉は「全的な人間」「まったき人間」と訳されたこともありますが、今回は「全体として好かれる人間」と訳しました。それは、すぐ後の会話の「あの人の目が好き、声が好き、だからあの人のことが好き、というのはおかしい(=部分的に好きになるだけだ)」「君の言うそれは(全体として)好きになったという徴候だ」という文章につながると考えたものです。
ここでクラウディーネははっきりと、「あなたの目と声が好き、だけどあなたの全部が好きとは認めたくない」と言っているではありませんか。
結局のところ、冒頭から結末まで夫への愛を誓う彼女の独白の裏側には、夫との間で得られぬ絶頂感にあこがれる女の姿が隠れているわけで、そうした隠微な点もこの小説の魅力だろうと思います。
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2018年11月23日金曜日
2018年11月18日日曜日
ピエール・ボナール展
国立新美術館のボナール展に行きました。
妻マルトを撮影した写真が展示されていましたが、室内で水浴する写真などはボナールの絵そのものでした。さらに妻マルトが撮影したボナールの裸体写真が展示されているのが面白いです。
ボナールはマルト以外の女性の裸体も描いていて、中でも人妻リュシエンヌを描いた「バラ色の裸婦、陰になった頭部」は、肌の色合いなどを見ると、むしろマルトを描いた絵より魅力的といえるほどでした。他には鏡をうまく使って静物画に裸体を配する「化粧台」など面白かったです。
「静物:皿と果物 あるいは桃を持った鉢」や「セーヌ川に面して開いた窓、ヴェルノンにて」は、美しい色彩があふれる魅力的な絵でした。
ボナールは一つの絵に時間をかけて描く画家でしたが、論述で観客を説得するのではなくて、その場の雰囲気を伝えることに関心がある画家だったと思います。今回のように多くの作品を一度に観るとその良さがよく分かると思えたので、良かったです。
2018年11月12日月曜日
2018年11月4日日曜日
藤倉大「ソラリス」
東京芸術劇場で藤倉大さんのオペラ「ソラリス」(演奏会形式)を観ました。
音楽はまるでソラリスの海のように独立して存在しており、歌の伴奏という感じではなく、ときどき大きく盛り上がって歌手の声をかき消していました。一般的なオペラの感覚とは違います。海の描写という感じはしませんでしたが、地球外の別天体という雰囲気はありました。
ハリーは脳内の記憶から作り出されたものという心理的な側面より、オリジナルかコピーかという本物/偽物の側面が強調されていました。朗唱風の歌が多い歌手の中にあって、ハリーの歌は美しい旋律が聴き取れました。他には、クリスと死んだギバリャンとが会話をする場面は印象に残りました。(彼は何者だったのだろう?)
あれだけタルコフスキーやソダーバーグを厳しく批判したレムの言葉を読んだら、レム本人の文章を丸ごと使いそうなものですが、台本はレムの原作にない文章がふんだんに使われていました。堂々と自分の世界を構築した作品でした。
藤倉さん自身の言葉によると、まず勅使川原さんが日本語で台本を書き、それを英語に訳しながら藤倉さんが作曲したとか。翻訳による変容を怖れない点が作品の根底をなしているといえそうです。